50光年の祝福

先日、古い友人と久々に連絡を取る機会があり、お子さんが20歳だと聞きました。

そのお子さんが赤ちゃんの頃
友人がその子を連れてうちに遊びに来てくれたことがあるので
「あぁ、あの子がもうハタチだなんて」
と、とても感慨深い気持ちになりました。

ここからは私の妄想なのですが
もしも、久々に友人に会いに行ったりなんかしちゃったりして、そのハタチの子に会うことがあったりしたら
(いや、たぶんないんだけど)
「赤ちゃんの頃、あなたに会ったことあるんだよ」
「こんなに立派になって」
と言ってしまうに違いないなー、と思いました。
 
きっと、言われた方はキョトンとするだろう
きっと私は一人で勝手に、泣き笑いのような表情をしながら
そうかそうか、良かった良かったと
何が良かったのかよくわからないけど頷きながら、ハタチの子を眺めまわして感慨にふけるんだろう
ジロジロニヤニヤと眺め回されて、その子はさぞかし居心地が悪いだろう
(妄想爆裂中)

ああ、万が一会うことがあっても、絶対にそんなことしないようにしなくちゃ
と固く心に思いながら(いや、きっと会うことはないから)
私も誰かからそうやって、そうかそうかヨカッタヨカッタと言われたことがあったっけな
というおぼろげな記憶がよみがえりました。

「あらー、弥生ちゃん、もうこんなになったのね。大きくなってー」
「あっという間ね、じきにお姉さんね」

そう言われましても。知らんがな。何がそんなに嬉しいんな。

当時私はどんな顔をしてどんな反応をすればいいのかわからず困惑しながらボヤッと立ち尽くしていましたが
自分の知ってる幼い子供がみるみるうちに成長したということは
こんなに嬉しいものなんだなと
かつて私の成長を喜んだ誰だかわからない人の気持ちがちょっと分かったかもしれません。

私はほんとうに不思議だったのです。
友人本人が何か成し遂げたとか手に入れたとかではなくて
友人の子供がハタチになったということで私が「そうかそうか、ヨカッタヨカッタ」と思ったことが。

いや、成し遂げたんですけどね。出産も子育ても大仕事だもの。
でもその「ヨカッタ」が、友人本人に向けたものである前に
たった一度会ったきりの、現在の顔も知らないワカモノに向けて感じたものだったのが、私には不思議でした。

多分、いろいろあるのです。万事順調で問題が何もないわけではないのです、どこの家庭だって。
それでも、あの小さかった子がハタチになった
あの若かった友人が、子供を育てあげた
すごいなぁ、よかったなぁ、偉かったなぁ、頑張ったなぁ
良いも悪いも失敗も成功もない、他に何の言葉も評価もいらない感覚
産みはったんや、生まれたんや、育ったんや、生きてるんや、すごいやん
私の心の中はそんな言葉でいっぱいになりました。

そして私もまたきっと
私の知らない大人の誰かにとって
「すごいなぁ、大きぃなったなぁ、あっという間やなぁ」という驚きであり
血もつながらない、知人の子に過ぎないと言うのに
きっとその大人の人にとって私の成長を見たことは喜びでもあったのだなぁと
初めて素直に思えました。

「ありのままで価値がある」って、そういうことなんだな。
子供の成長というのは
どんな生命も、生きているだけで素晴らしく価値があり喜ばしいことなのだと思わせてくれる
だから大人は「そうかそうか、ヨカッタヨカッタ」と言いたくなってしまうのだな。

私もまたどこかの誰かに祝福された子供だったのだな。

どこの誰だかわからない人が大げさに喜んでくれることを全く受け取れずにシラケていた私ですが
50年の歳月を経て、その人からの祝福が届きました。
届くのに時間がかかるなんて、星の光みたいでしたね。なんちゃって。

ハタチのあの子のことも、きっと大勢の大人たちが祝福して来たはずです。
もしかしたら、私のように「知らんがな」と思ったかもしれません。
どこの誰かわからないオバサンたちの祝福を
あの子がいつか受け取れる日が来たらいいなと思います。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

引きこもりからフリーターを経て社会復帰した経験を持つ。その間、心因性アトピー、薬害、うつ状態などを克服。 明確に言葉にできない気持ちを汲み取り、寄り添いながら、見通しよく整理していくことを得意とする。問題の奥にある魂の輝きと愛を見つめ続けることを信条とする。家族の宗教問題、自死を経験。