今日は私の好きな詩を紹介させてもらいますね。
「星とたんぽぽ」金子みすゞさん
青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
昭和の初期に亡くなられた、童謡詩人の金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」という有名な詩です。
ご存じの方もおられると思いますが、私はこの詩をテレビのCMで長年使われていたことから覚えました。
母が金子さんの詩集を持っていたので、じっくりと読んで、本当に素敵な詩を沢山書かれていて引きこまれました。
この二年ほど改めてこの詩が、私の胸に改めてじわじわと来るんです。
私達は見過ごしてるものを見ようと意識するか、意識しないかだけではないか?
想像力を使って何かをみてみたいと思うかどうか?
見えないものを見ようとする優しい目線をもつかどうか?
昼間の空にも星はあるけど、見えないだけで確かに星は在るんですよね。
昼間の明るい空のむこうにも輝いてる星がある。
「本当にそうだな」と感じましたが、そんな当たり前のことなんだけど、私は金子さんの詩を知るまで気付かなかった、ちょっとした衝撃を受けた、昼間の星の存在でした。
昼間の空に星を想い浮かべられるこの金子さんの感受性は素敵だと感じます。
そしてなんて優しい目線をもっている人なのだろう、そのものの見方は世代を超えて、多くの人の心に響いてくるんだと思いました。
「見えない=無い」と私達はつい思ってしまうけれども、そうじゃないよと優しく気付かせてくれました。
私の師匠はいつも「人は人を愛したい生き物だ」と言っておられます。
その師匠の言葉とこの金子さんの詩が私の中ではリンクして感じるのでした。
あの金子さんの詩の中にでてくる昼間の見えない星のように
「見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ」
心の中の愛は物体として見えないけれども、どんな人の心の中にも愛があるとして見ようとするか、愛が無いとして見ているかの違いだけで、私達の感じる世界はとても違ってくるのではないか?と思いました。
私たちの周りには目には見えないけれども、必ず誰かの優しさや、人を愛したい愛があるのだとしたら?
私は長い間ずっとずっと、愛がないと怒って生きていたから言うのですが、愛がみつけられないときは本当に苦しいです。
愛がみえないと怒る心にも、悲しくなるのにも必ず理由がありますが、好き好んで怒りたくて怒っている人は、きっと誰もいませんよね。
空の星が在る事は簡単に認めやすいのですが、例えば私にとって簡単に許せない人がいて、その人にも愛があると感じることは私にとってはとても難しい事でした。
でもそれを言い訳にして、ずっとその怒りの位置にいつづけることもしんどかったのです。
私が許せなかったその人にも愛があることを感じたくなくて、その人に自分が愛されていたとか、私は認めたくなくて愛がないと怒っていました。
私が自分から率先して誰かに届けた優しさや愛までも私は認めなくなり、「誰かにやらされた!」「あいつが悪い」と言わんばかりに怒ってしまい、私は被害者になっていました。
しかし
昼間の空に星があるように、見えないものを見ようとしたら、誰かが私を愛そうとしていたこと愛を与えてくれていた事を見ようとしてみたら、少しずつ愛がみえた時、私の目からはあったかいものが溢れてきました。
見ようとしなかったものに意識をあて、愛があることに意識を集中していくと、なぜだか私の目には涙があふれるのです。
これが愛を感じる、愛を見つけられた私の心の変化でした。
「そんな愛し方では足りない!」
「愛はもっと繊細に丁寧に優しくあるべき!」
私の愛のありかたが正しくて、貴方のくれたその愛のありかたは違っていると、誰かの愛を否定して、愛されることを拒否していた私が見えてきました。
そして私は私の思うような愛され方はされなかったから、誰からも愛をもらいたくない。だから私は誰かを愛さないという言い訳をしていた痛い自分が見えてきて恥ずかしくなりました。
それは違いました。
あの空に星があるように、私達には愛があります。
色んな輝きのお星さまがあるように、愛にもいろんな形があるのです。
相手にも私にも愛があって、色んな愛の在り方があるのです。
言い訳を次々とならべて、私が愛を使わない理由を探してもしょうがないのでした…。
今日は金子さんの詩を読み直しながら、自分の愛を使っていこうと教えてもらいました。
愛は使ってなんぼですね。