捨てられるだけ捨てていこう 春休み

回数は多くないけれど、たまに雷に打たれるような言葉に出会うことがあります。

まだ心理学のことも何にも知らなかった二十歳の春の頃。
いつもは全然興味も立ち止まることもない、短歌や俳句の本のコーナーで出会った「十七文字の孤独」と言う本がありました。
何気なくめくったページにあった俳句が「捨てられるだけ捨てていこう 春休み」だったのです。

「あぁ、捨ててもいいんだ…」

思わずホッとしてため息が出そうになりました。

そう感じた自分にびっくりして衝撃が走るくらい、無意識に何か背負ってるように感じていたのかもしれません。
大人になると忘れてしまったりもするけれど、それくらい春って肩の力が入っていることってありませんか?

学生さんなら新しく学年が変わることだったり、進学したり、社会に出たと言われる状態になったりしますよね。
会社でいても新人さんが入ってきたり、自分が新しい場所に異動したり、新しい仕事が始まったり、その中で色んな人に出会ったりします。

そんな人間関係が大きく動く時、私の頭の中には新生活のワクワク感だけではなく「ちゃんとしなきゃ」「上手くやらなきゃ」「馴染めるかな」なんて不安がいつもありました。

「新しい人達と上手くやれるかな?」
「新しい目標を叶えられるかな?」

ワクワク楽しい気持ちのままでずっといられたらいいけれど、過去の失敗がふっと脳裏をかすめて気付いたら肩に力が入ってしまう。
春から先のことなんて、まだまだこれからでわからない。
でも、いっぱい頭の中を巡っている記憶があるのです。

独りになるのが怖くて無理に話題を合わせて必死に取り繕っていた時代。
そんな必死さに疲れて「もう気の合う人とだけいたらいいやー」と部活の友達としか仲良くしなかったジプシーのような時代。

「今、そんなこと思い出さなくても次は違うかもしれない!」

そんなふうに春が来るたびに自分を鼓舞して、前を向くことに毎年どこか必死だった気がします。
二十歳前後の私は今よりも自分のことが大嫌いで、自分を嫌いな分、どこにいても誰といても「人に受け入れてもらわなくては」と必死に良い子をしすぎたり、そこに疲れて急にフェードアウトしたりを繰り返していました。

そんな時に出会った「捨てられるだけ捨てていこう 春休み」は「春休み」に許されて、そんな必死な自分でなくてもいいんだ、「自分」と言う殻を捨ててもいいんだと入りすぎていた肩の力を抜いてくれました。

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新しい人間関係を築いていく時、過剰に気を遣ってしまう。
「上手くやらなきゃ」と気負ってしまう。

そんな時、私達は過去の自分の体験や「私って、こういう人」と言う自分像に物凄く執着していることがあると思うんです。

執着って例えばだけれど、恋人に執着してしまうとか、お金やモノに執着してしまうとか、それが「執着」なんじゃないかと思うでしょう?

でも、それだけじゃないこともたくさんあるのです。

私の場合は、子供時代にいじめられっ子だったこともあって中学校の頃には既に自分の中に「周りの人に同調しておかないと人間関係は上手くいかない」とか「私は変わっている子」という自己イメージが強くありました。
私って「変わってて、自然に振る舞ってたら人間関係なんて上手くいかない」そんなふうに「それが私だ」とその設定に執着していたのです。
だからこそ、必要以上に「ちゃんとしなくては」と気負っては疲れて…を繰り返していたのです。
でも、それで上手くいっている時もあったからこそ、自分の設定をそこまで頑張って握りしめていることにも気付いていなかったんです。

「捨てられるだけ捨てていこう 春休み」は、そんな何も知らない私に「本当に、そう?」と問いかけてくれた言葉でした。

あなたの中には、ありませんか?
「こうしないとダメ」
「私って、こういう人間だから」

そう思うこと自体が決して悪いことではありません。
だって、それで成功していることもあるし、幸せを感じられたこともあったりしますから。

私も何だかんだ不安になったり疲れたりしながらも、その時々で出会った友達の中には今も関係が続いている友達が何人かいるからです。

けれど大人になってから、後々聞くと「引っ込み思案?最初は大人しそうな印象はあったけど、話すとすごい喋る人だったよ」と言われました。
そして、母親にも「成長してからは引っ込み思案になったけれど、小さい頃は誰にでも話しかけたりしていく人懐っこい子だったのよ」と言われたのです。

まさかの話です。

この私が人懐こい…人が怖いと言う理由で心理学で自分や人を学ぼうとした私が人懐こいなんて、到底受け入れることができませんでした。
そんなに喋っていた何て思わなかったし、うるさかったのかなと冷汗が出ました。
でも、私にもいじめられっ子になる前は、覚えていないだけでそんな時代があったみたいなんです。
そんな時代を知っている母には、新しい環境で気を遣って疲れている私は「何でそんなに考えすぎてるのかしら?」と映っていたようです。
そして友達も全然、うるさいとは感じていなかったようなんです。

人が見ている自分と、自分が見ている自分は違うとはよく言われますが、私ではそれくらいの違いがありました。
最初は「まさか」と疑ってしまいましたし、それでも今は人懐っこい私じゃないから、そんな純粋だった頃には戻れない…そんなふうにも思いました。

でも、そんなふうに見てくれる人がいると言うことは「人懐っこい自分」でいることもできるし、これから先もそんなに必死に気を遣って頑張らないと独りになっちゃうなんてことも起こらないとも思えたのです。

それは私の中で「引っ込み思案な時もあるけれど、人懐っこい時があってもいい」「気を遣っていないと嫌われる私じゃなくていい」と自分の中の「これが私」という設定を変化させるきっかけになったのです。

私とは同じではなくても、あなたの中にはどんな設定が握りしめられているでしょうか?
もしかしたら、あなたが思っている自分とは全く別の自分が他の人の中にはいるかもしれません。

それが自分にとっては、受け入れがたい自分だとしても、その人が受け入れてくれているとしたら、それはとても愛されていることかもしれません。
そして、あなた自身も同じように誰かのことを自然と受け入れたりしているのかもしれません。

そう考えると、春は新しい人間関係の中でどんどん心の中の「私」を自由にしていける時なのだと思います。
不安になっちゃったら、ちょっと勇気を出して今まで傍にいてくれた人に聞いてみてください。
「私って、自分ではこんなふうに思っちゃうんだけど、あなたはどう思う?」
「私の良いところってどこかな?」

もし、返ってきた答えが意外なものだったとしたら…びっくりしちゃうかもしれないけれど、それはマイナスばかりとは限りません。
あなたのそんな部分を相手は受け入れてくれていることに、大きな愛を感じられるかもしれません。
そして、あなたも恥ずかしいかもしれないけれど、相手の良いところや大好きなところをいっぱい伝えてみてください。

あなたは、どんな「私」の殻を破って春に向かって行きますか?

あなたの人間関係が素敵なものになりますように。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

お客様からは「話していて安心できる」「気持ちが落ち着く、整理できる」と定評がある。自身の過去のいじめから来る対人恐怖(男性恐怖)、過食症を克服した経験を持ち、繊細な感受性でお客様ひとりひとりの心に寄り添い、どんな時もお客様の魅力と光を見続けるカウンセリングを心情としている。