自分の外側に何が見えるか、どのように感じるか。
すべては、心の内側を映し出しているといいますよね。
これを投影の法則といいます。
朝起きて窓の外を見たときに、「今日もいい天気だな~」と晴れやかな気分になることもあれば、「今日は曇りか。なんか重たくてどんよりする感じだな」と思うときもあります。これらは、晴れているからいい気分になる、曇っているから重たい気分になると思いがちですが、実はそうではなく、そのときの自分の心が晴れやかだから「いいお天気~」と晴れやかさを感じ、重たくてどんよりとした気分だから「曇りか。どんより…」と感じるわけなんですよね。
ふだん生活をしていて、嫌なことがあったりすると、「嫌なことがあったから、こんな嫌な気分になったんだ」と思うものですが、実はこれらも自分の心が先、できごとが後なんです。
起こったことを心の内側でどのように捉えるかが先。その心の内側を起こったことに映し出して、「嫌なことがあった」と思うわけなんですね。
だとすると、心の内側が変われば、外側に見える世界も変わるということになりますよね。
それをしみじみ感じたできごとがありました。
先日、電車に乗っていた時のこと。
目の前の席におじさんが座りました。雰囲気や動きがちょっとおかしいように見えました。なんだかとてもヨレヨレしていたんですね。心ここにあらずな感じ。
別に気にしなければいいんですが、なんか気になってしまい、おじさんをこっそり見ていました。じっと見るのも、怪しいですからね。
おじさんを見ていると手にパックを持っていました。ストローを口に当ててときどき飲んでいたんですね。ジュースのパックなのか、なんなのか。上手に手で隠されていて、わからなかったんです。
何、飲んでるんだろう。
ヨレたおじさんは、そのパックを手から離すことなく、ときどきストローで飲んでいたんですが、あるときふと隣の空席にパックを置いたんですね。
「鬼ころし 辛口」と印刷されたパックを見たとき、思いました。やっぱり!
やっぱり当たった。お酒じゃん。
すると、ヨレヨレだったおじさんがさらにヨレヨレに見えてきたんですね。
おじさんに家族はいるんだろうか、おじさんはちゃんと生活できてるんだろうか…。急に心配になりました。
どうして心配になったのかというと。
自分の過去のできごとを、おじさんを通して見たからなんですね。
以前、父がアルコール依存症で、本当にヨレヨレな時期があったんです。自宅の階段から落ちて骨折して動けなくなったり、道端でばったり倒れていたり、本人の意識のないところで救急車を呼ばれて搬送されたり。
昼間から電車の中でも手に隠しながらお酒を飲むおじさんを見て、あ、これはもうアルコール依存症に違いないと勝手に思い込み、父のひどかった時期のことをおじさんに投影して、大丈夫だろうか大丈夫だろうかと心配になってしまったんですね。そして「おじさんはきっと独り者に違いない。家族がいても家族から見放されているに違いない」と勝手にかなりブルーなストーリーを描いてしまったんですね。
そんな最中に、ふと思いました。
「あ、いま私。ひどい顔しておじさんを見ているに違いない」
アルコールにいいイメージがなくて、勝手に心配してブルーな気分になっている。だけど、私がブルーな気分になったところで、誰にとってもいいことは起こらないんですよね。しかもこんなふうにも言えるわけです。昼間からブルーな気分をまき散らしているって。
いま自分にできることって何だろう?
そうだ。祈ってみよう。
そこで、電車の中で勝手に祈ることにしました。
おじさんが、少しでもいい気分でいられますように。
アルコールが醒めたらブルーな気分になることもあるかもしれないけど。幸せでありますように。
(勝手な想像の入った祈りになってますが。笑)
感情って伝播するっていいますよね。
だから、自分が嫌な気分でいるところから抜けて、機嫌よく楽しい気分になったら、その気分が伝播して車内にいる周囲の人もいい気分になるかもしれない。私がいい気分になれば、そのいい気分がおじさんにも届くかもしれない(かなり勝手な想像ですが。笑)
そう思って、祈りながらも楽しい気持ちをイメージしていきました。
そんなことを2、3分続けてみたあと、どうなったかというと。
おじさんがそこそこ楽しそうに見えたんです。多少ヨレているかもしれないけれど、おじさんはおじさんでそこそこご機嫌なんだな。家族がいるかいないかわからないけど、おじさんは普通に暮らせているんだよな。なんだ、心配することなんてなかったんだな。
不思議なことに、おじさんの若干おかしな挙動さえかわいく見えたんです。
何が変わったかというと、自分の心が変わったんです。
電車の中でパック酒をコソコソ飲むおじさんを見て、昔の「お酒に飲まれているお父さんが心配」という嫌な気持ちをおじさんに映し出していたのが、祈ることで自分の心のチャンネルが変わったんですね。嫌な気持ち(怖れ)から、幸せでありますように、楽しくいられますように(愛)と自分の心のチャンネルが切り替わったんです。
幸せでありますようにと祈ることで、自分の心にある愛に自分自身が触れることができた。
自分の心が愛に触れたことで、愛のフィルターを通して外の世界を見ることができるようになった。
目の前の光景は何一つ変わっていません。
だけど、とても平和な光景へと見え方が変わりました。
車窓から差し込む光は、とてもぽかぽかしていました。
心の中には、愛もあれば恐れもあります。
不安や心配、嫌な気持ちを感じているとき、心のチャンネルは怖れの中にいます。
だけどそんなときでも、心の中に愛はあります。
自分の心の中にある愛に触れること。すると怖れの中からすっと抜け出して、愛のフィルターで世界を見ることができます。愛情をもって人と接することもできます。
怖れの中にいるとき、昔あった何かが心の中で呼び起されているのかもしれません。
だけど、怖れから世界を見たり、世界と接したりしても、いい展開になっていくことは残念ながらありません。
怖れから世界を見ているとき、怖れがどんどん拡張されていってしまうんです。
そこから抜け出すためにも、自分の愛に触れること。
最近よく、こんなふうに考えるんです。
怖れと愛のふたつのモードがあるとして、一人ひとりがどちらかを選択できるとします。
一人ひとりが選んだものの集合体が、世界を構成しているとします。
さて、どちらを選びたいだろうか。
どんな世界にいようとも、いま自分にできることをする。
自分が選択したものが、世界を構成する一要素になっているのだとしたら、私はご機嫌でいることを選びたい。
自分がご機嫌でいれば、自分がかかわる人に少しでもご機嫌をおすそ分けできるから。
相手が怖れの中にいるときも、自分がご機嫌でいれば「今日はいいお天気ですね~」といい気分をおすそ分けできるから。
できることなんて、ほんの小さなことだけど。ほんの小さなことの集合体が世界を構成しているのだとしたら。私はご機嫌でいることを選びたい。
もちろん、怖れの中に入ることもあります。
ちょっとしたことで、すぐ入っちゃったりもします。
それでも愛と怖れと、チャンネルを切り替えればいいだけなんだとわかってからはとてもラクになりました。
気分のチャンネルを切り替える方法って、いろいろあります。
なかでもすぐにできるのは、誰かの幸せを祈ることと、感謝することです。
誰かの幸せを祈るとき、自分の中の愛に触れることができます。
感謝をすることでも、自分の中の愛に触れることができます。
ご機嫌な人と接する、気分のいい場所に行く。そんなことでも、気分はよくなります。
おいしいものを食べると、とても幸せな気持ちになれます。
方法なんていくらでもあるんですよね。
感謝の気持ちを相手に伝えれば、愛のエネルギーを伝播させることができます。
ごはんを食べに行ったとき、「ごちそうさまでした。おいしかったです」と伝えたら、相手の気分もほんのり良くなるかもしれません。そのあと気分よく、仕事できるかもしれません。
朝、気持ちのいいあいさつをすれば、気持ちよさを相手に贈ることができます。
自分にできることって、ほんの小さなことだけど。
小さなことを大事にしていくことが、自分の望む世界をつくることにつながっているのかなと思っています。
あなたはどんな世界が見たいですか?
そのために、いまできることは何ですか?