もう20年くらい前の話です。
仕事で知り合った女性のお母様が、パウンドケーキを手作りして販売することになったとのことで、チラシをいただきました。
私はせっかくなので、同じ部署の女性たちに声をかけて、みんなでたくさんパウンドケーキをオーダーしました。
ひとつひとつ丁寧に包装されたパウンドケーキが会社に送られてきて、私たちは自分でオーダーした分を自宅に持ち帰ってそれぞれ食べたのです。
その後その女性から、お母様がパウンドケーキの感想を教えてほしいと言っていると言われました。
私はまたせっかくなので、ケーキをオーダーした皆に声をかけて感想をもらい、A4用紙2、3枚にまとめたものをお送りしました。
そのとき、皆からもらった感想を見てみると、半数以上があまり好意的ではないコメントでした。
「あまり美味しくなかった」「味がぼやけている」「どこにでもありそうな味」など。
たしかに私も「美味しかった!」と両手を上げて喜んだわけではなかったけれど、こういう正直な感想を送っていいものかと悩みました。
とはいえ、皆から集めた感想を私が握りつぶすのも変な気がして、私はそのままそのお母様に送りました。
するとほどなくして返信が届きました。
返信には、そのお母様の怒りが込められているように感じました。
「一生懸命手作りしているのに」「添加物を入れない自然の味を知らないからだ」などなど、私が責められているように感じ、残念な気がしました。
私は好意で皆に声をかけてオーダーし、好意で感想を集め、好意で正直な感想を伝えたのに、それで怒らせてしまうのだとしたら、正直に物を言うというのは危険だなと思いました。
それ以来、正直であることは相手を傷つけることがあるけれど、どこまでが傷つけなくて、どこからが傷つけるのかが分からず、一層のこと正直にならないと決めたほうがいいのではないかと思っていました。
感想などを聞かれれば、とりあえず褒めておけばいいのかとも思いました。
ところが、それはそれで自分がウソつきのような、八方美人のような気がして気分がよくなかったのです。
心理学では、物事を愛かエゴか、などという見方をすることがあります。
心の中の天使と悪魔のような物事の考え方と言えるかもしれません。
愛をもとに行動すると、私たちの心は温かな気持ちになり、エゴにもとづいた行動をすると、自分は罰せられるに相応しいと思うような罪悪感と呼ばれる感情を感じるようになることがあるのです。
その考え方をもって、かつてのパウンドケーキの件を思い返してみました。
同僚たちに声をかけて、みんなでケーキをオーダーしたのは、少しでも手作り販売している方に喜んでもらいたいという愛だったと思うのです。
では感想を教えてと言われ、皆から集めたものをそのまま送ったのは、愛だったのでしょうか。
私は、まず皆に感想を書いてねとお願いしたのは、感想が欲しいと言った方に喜んでもらいたいという愛だったと思いました。
でもその後、好意的ではない感想も全て送ったことは、愛であったという自信が持てませんでした。
なぜなら、送る前に私はちょっと悩んだのです。
こんなコメントを受け取った人は、嫌な気分にならないかな。
そう思ったのに、そのまま送ってしまったのでした。
わざと相手を傷つけようという意図は無かったけれど、愛ではなかったかもしれません。
では、どうすればよかったのかなと考えました。
正直でありたい、でも相手を傷つけたくない。
そんなとき、まず正直であることが、100%全てをさらけ出すことであるとは考えなくていいのではないかと私は気づきました。
好意的ではない感想があったら、それを全て送るのではなく、かいつまんでほんの一つか二つにすることもできたはずなのです。
受け取った相手がどう感じるのかを想像してみれば、多くのネガティブな感想を見てがっかりするか反発したくなるかもしれないと思いました。
誰にとっても自分に対するネガティブな言葉はなかなか素直に受け取れないものです。
でもひとつふたつであれば、勇気をもって聞く耳を持とうと思うものかもしれません。
感想を教えてと言ったからには、耳が痛くなるようなものも全て聞きたいのよね?というのは、建前としてはそうかもしれませんが、人間なかなかそのように、広い心で受け入れる態勢でいられないものだと私は思います。
でも感想を聞きたいというのは、つまりいいところは褒めてほしいし、そうでないところは改善したいという意志の表れだと思うのです。
だとしたら、改善したいという気持ちを失わせてしまうかもしれないほどの、ネガティブな感想をまるごと投げつけるのではなくて、小出しにするというのも、もしかしたら相手に対する愛だったのかもしれないなと、いまごろになって私は思いました。
正直であることと、相手を傷つけないことは共存できるはずですが、明確に「こうすべき」というものは無いかもしれません。
ただそこに、ほんの少し相手への「愛」という名のスパイスを忘れずに加えてあげる必要があるのかもしれません。