先日、友人とフルーツパフェを食べてきました。
美しく盛られたフルーツに私たちは大歓声。
楽しいひと時を過ごしました。
ところで、パフェってとてもワクワクする食べ物だと思いませんか。
もちろん好みはありますが、器いっぱいに盛られたフルーツやクリームには、夢があるなぁと思います。
私は、パフェのような楽しくて豪華な食べものを前に出されると、「うっ」とたじろぐことがあります。
こんなにいいもの食べられないよって。今回はそんな私の思い出話です。
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子供の頃の私は、外に出るよりも部屋にひとりでお絵かきするのが好きでした。
ある日、幼稚園で写真撮影がありました。
カメラマンが私の前を横切って他の子供の写真を撮っていたとき、子供心にこんなふうに思いました。
元気で社交的な子供が褒められて、私はそうでない方なんだ。
私はダメな存在だから、自分がいない方がみんなは喜ぶんじゃないか。
これは、ずっと私の心の底に流れていた考えでした。
私は中学生の時、学校でのトラブルをきっかけにものが食べられなかった時期がありました。
食べられない姿を見られたくなくて、家族での食事の時間は一人離れたところに行くようになりました。
その後も人と関わることを避け、一人でいることを好みました。
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私が一人を好んだのは、自分がいない方が周りは喜ぶだろうと思ったからですが、一方でこんな思いもありました。
ほーら私ってひどい人でしょ。こうなったのはお前たちのせいだぞ!
人から遠ざかることが、怒りの表現だったのですね。
でも、笑いながら怒ることができないように、ずっと怒っていると毎日が楽しくありません。
社会人になっても生きていることがしんどくて、心理学を学び始めた私。
先生はこう言うのです。「幸せになるのは義務です。」
次第に、自分はダメな存在だと思いながら周りを責め続ける生き方に疑問がわいてきました。
本当は楽しそうな人がうらやましいし、幸せになりたい。
しかし幸せになったら、怒れなくなってしまう。今まで怒ってきたのは何だったの?
そんな思いも出てきます。
何度も何度も葛藤しました。
時には涙が出るほどでしたが、幸せになることを選ぶ。
私のチャレンジが始まりました。
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自分がいなくなれば周りの人が喜ぶだろうという考えは、切ない考え方ではありますが愛情表現の一種。
悪いわけじゃないけれど、残念な点があります。
それは、“たのしい・うれしい・わくわく”といった喜びを感じられないこと。
これまでのやり方で喜びを感じられないなら、やり方を変えればいいのです。
自分の存在を消すのではなくて、相手に近づいて言葉や態度で伝える。
私はこれに取り組みました。
実家に帰ったときに、みんながテーブルを囲んでいる中に、勇気を出して「私も入れて」と言いました。
あっさり私の席が用意されました。
ある講座で自分の願い事を話す時間があり、私は「友人とカフェに行くのが夢」と話しました。
すると、それを聞いていた仲間たちが一緒に行こうと言ってくれました。
今は、両親に「育ててくれてありがとう」と言えるようになりました。
いろいろあったけど、けっこう幸せだよ。
そんな言葉も付けられるようになりました。
今思い出せば、みんな明るい笑みを浮かべていました。
怒りを握りしめていたそれまでとは全然違う、穏やかな毎日がやってきました。
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さて、穏やかに過ごせるようになった今でも、私がまだ怯むものがあります。
パフェのような非日常的な豪華な食事です。
「これを食べたらいい気分になってしまう。私にはもったいない」とついつい思ってしまうのです。
でも、食事をいただけることに感謝して、「おいしかった~」と笑顔になる。
それもまた愛ではないでしょうか。
パフェを食べていた時、私たちはもちろん、ほかのお客さんも店員さんも、みんな笑顔でした。
みんな笑顔で、みんながいい気分。
私が笑顔でいることでみんなが幸せになることに貢献できるのだなと実感しました。
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幸せになることをゆるす。
それは、怒りをこえて愛を選べるような、器の大きな私になることをゆるすことでもあります。
私の幸せをゆるすチャレンジはまだまだ続いています。
あなたの幸せも応援しています。