先日、生前の父を知る友人の協力を得て、「生きているうちに一度は訪れてみたい」と思っていた下栗の里へ、念願叶って行って来ることができました。
下栗の里とは、南信州の日本のチロルとも言われる標高1000メートルにある集落です。
ここは、私の父の生まれ故郷。
「雲海が広がるような山の上にあって、道も狭くて車では行けないから、連れて行ってあげたいけど簡単には行けるようなところじゃないんだよ」
話には聞いていたけど、想像以上に山奥のまさに秘境でした。
ちなみに、私の父は20年前に他界しており、もし生きていたならば、今年で85歳。
あれから長い時を経て、今では高速道路やループ橋、たくさんのトンネルが開通されており、かなりの時短で行けるようになっていました。
「北国の春」や「ふるさと」をよく口ずさんでいた父。
その父の故郷の原風景は、なるほど!コレだったんだ!!
実際に足を運んでみて、気づいたこと、感じたことがたくさんありました。
「お父さん、来たよ。お父さんが見せたかったところって、コレだったんだね」
私は心の中で父に語りかけながら、その風景を目に焼きつけ、風を感じ、命水を身体に沁み込ませて、その地を後にし、できなかった答えあわせをこうして叶えることができました。
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年齢を重ねてわかることがある。
時間を経たからこそ叶うものもある。
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幼い頃、私は両親が嫌いで、死にたいと思っていた時期がありました。
本音が言えずに、生きている意味を見失って、自暴自棄になったこともありました。
自分が嫌いで、わからなさ過ぎて、いなくなりたかった。でも死ねずに、家を出て、これまでの自分を知る人のいない世界へ飛び出したことも。
人との関係に傷つき、自分さえも見失っていていた私が、紆余曲折しながらも助けられ、癒され、自分を取り戻すきっかけをくれたのも、やっぱり人でした。
「この人とは一生分かりあえることはないだろう」と思っていた人とも、今ではいろんなことを分かちあい、お互いの幸せを応援しあえる、かけがえのない大切な友となりました。
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父に直接確認することは叶いませんが、「もうここへは戻れない、戻らない」そう決めてこの地を後にした若き日の父を思うと、家を出た時の自分とも重なり、なんともえいない切ない気持ちになりました。
高校を卒業後に、豊かな都会生活にあこがれ、夢と希望を抱いて上京したという父。
その後、東京から他の家族が縁故を頼って移り住んでいた群馬に移り住み、私の母と出会い、結婚し、私が生まれた。
私からしてみたら、ここ(高崎)もじゅうぶん田舎な地域。でも父にとってみたら、平たんな田んぼが広がるこの地域は、未来を描くことのできるまっさらなキャンパスに思えていたことでしょう。
食品会社を立ち上げたころの父は、昼休みに従業員の分も味噌汁を作ってはよく振舞っていました。そういったことも思い返せば、生まれ故郷で培った共同作業や共同生活の知恵や文化をふんだんに活かしていたのだということにあらためて気づかされます。
早くに自分の父親を亡くし、働きながら定時制高校を卒業したという父。
「なんで食品の会社をやろうと思ったの?」と聞いたとき、父は「自分が子供の頃は食べ物がなくて幼い兄弟が亡くなってしまうほど、ひもじい思いをしたから」と言っていましたが、食べ物に囲まれた生活は、父の安心を満たす理想の仕事でもあったのだと思います。
親子関係においては、お互いの思いがこじれていた時期もありましたが、批判を脇において、ひとりの人間が何を思いどう生きたかに思いを馳せてみれば、その人なりの在り方や愛し方があったことに気づきます。
他人はもちろん、それ以上に家族の誰かの人生を肯定できたとき、同じように今ある自分自身を肯定し、癒すことができるのだと知りました。
一方、下栗の里はテレビに取り上げられることもあり、今ではちょっとした観光スポットにもなっているようです。
この地を愛し住み続けてくれている人の存在と、その地に足を運んでくれる人の存在を知った時、なぜかホッとして、故郷を離れた父の罪悪感までも解き放つことができたような気がしました。
父が罪悪感を持っていたというのは私の投影であるわけですが、ホッとする感覚を得た後で、私がこのような投影の仕方で間接的に罪悪感を持っていたことがちょっと驚きでした(笑)
でも、気づいたからこそ手放していける。
「自分にとっての幸せな人生を生きていい」そう思えて、ご先祖様からも大きな許しをもらえた気がしました。
もしかりに、私たちの人生をどこかで見守ってくれている神様がいるとしたなら、きっと「しあわせ」というエンディングに導いてくれる、そう思えた旅でした。
祝うこと、楽しむこと、喜びを感じること、感動すること、感謝すること、愛しあうこと。
助けあい、励ましあい、応援しあうことを通じて、お互いに信頼しあえる関係をつくること。
同じ時代を生きるご縁のある人たちと、私は、わたしの志事を通じて、さまざまな感情体験を分かち合えたら嬉しいな。
あなたの悲しみが、あなたの叶えたい夢の種となり、美しい花を咲かせられますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。