■「普通の子だったらこんな手がかからないんだろうな」と思ったけれど
わたしには 19才になる息子がいるのですが、この子を育てながら、様々な場面で「普通に育ってくれたらいいんです。」と言ってきました。
うちの子は、標準的な発達とは、少し違った発達をする子どもだと言われています。子育てをしていると、正直、手のかかる子だなぁ~と思う時もありました。そんなときには、「普通の子だったら、こんなに手がかかったりしないんだろうな」とも思っていました。
でも、「手のかからない子育て」なんてあるんでしょうか・・?
たぶん、「ない」と思うのです。
うちの子はうちの子なりに手がかかり、他の子は他の子なりに手がかかるものではないでしょうか?どんな子育ても程度の差はあっても「手がかかるもの」です。
■「この子はほかの普通の子のようにはなれない」というあきらめ
「普通に育ってくれたらいいんです。」
そう言っていた頃のわたしには「この子が普通の子と同じようにできたら、どれだけいいだろう・・」という思いがありました。「この子は普通じゃないから、せめて普通に育って欲しい」という気持ちもありました。
そこには、「この子は、他の子と同じにはなれないんだ」という「あきらめ」や「絶望感」もあったと思います。
「普通の子」
わたしは、自分の子ども以外の子をそんな言葉でひとくくりにして見ていました。
「普通の子」なら、きっと教科書がすらすら読めるだろう。
「普通の子」なら、もっと学校であったことを話してくれるだろう。
「普通の子」なら、受験して高校生活を楽しんでいるだろう。
「普通の子」なら・・・
「普通の子」という基準を作って、それに比べて、「うちの子は、こんなこともできていない・・」、「あんなこともできない・・ 」と、「できない部分」「持っていない部分」ばかりを見ていたのです。
■「普通」という幻想を手放す~うちの子だけが違うんじゃない~
当時のわたしは「普通の子」という理想、もっというなら「幻想」を追いかけていたのだと思います。
けれど、実際のところは、「勉強は得意だけど、友だちと話すのは苦手」「スポーツは得意だけれど音楽にはちっとも興味がない」「国語は得意だけど、数学なんて見たくもない・・」等、ひとりひとりそれぞれに得意なことや苦手なことがあり、何もかもが「普通」・・なんていう子はいません。
なにができるか、何が得意かは別として、誰にだって、できることもあればできないこともある。得意なこともあれば苦手なこともある。
この子だけが、他の子と違うんじゃない。
みんながそれぞれに違うんだ。
「違う」ということは、特別なことではないんだ。
そう気づいたときに、「この子は特別じゃない!!」という気持ちになりました。それまでずっと感じていた「うちの子と他の子は違う」という感覚が、「うちの子だけが違うんじゃない」という感覚に変わりました。そして、「あきらめ」や「絶望感」からも少しだけ解放され気持ちがすっと楽になったのです。
■「うちの子だけ」「私だけ」と切り離すのをやめると見える世界が変わる
うちの子と他の子は違うと思っていた頃、わたしは「うちの子だけが違う」と感じていました。「うちの子だけ」と感じているときには、誰も味方になってくれないような気持ちになったり、誰もわかってくれないような気持ちがして、たった一人で生きているような気持ちにもなっていました。「うちの子」と「普通の子」と分けることで、「自分と他の親は違うんだ・・」と思い込もうとしていたのかもしれません。
でも、「うちの子だけが違うんじゃない」と思えたとき、「自分も、他の親も同じなんだ。」「うちの子も、他の子も同じなんだ」という気持ちになりました。
たった一人ではなく、誰かと一緒なんだという感覚があると、わたしたちは「安心感」を感じることができます。安心できると、心に余裕が生まれます。余裕があると、物事のとらえ方を変えることができます。
「わたし」と「みんな」
そんなふうに分けて考えるのをやめたとき、それは、今までずっと感じてきた「どうせこの子は普通にはなれない」というあきらめを手放したときでもありました。そして、その瞬間、それまでわたしに見えていた世界とは違う世界の扉が開いたのです。
扉の向こうにあったのは「わが子を素直にかわいいと思える」「わが子のすばらしさを正直に味わえる」、そんな世界。
わが子のすばらしさをありのまま味わえる、これこそ、「親の醍醐味」です。
そんな世界の住人になってみませんか?
次週は 池尾千里カウンセラーが担当します。