人の問題と自分の問題に境界を引こう

人の問題と自分の問題に境界を

世の中は「よい」「悪い」だけで出来てはいません。特に人間関係で生じる問題は、人と人との相互作用です。問題を抱える方は「私が悪い」と捉えがちですが、自分の問題と人の問題に境界を引くことで問題を抱えることが少なくなります。「私だけが悪い」わけではなく、そのような結果を生む理由や背景があるのです。

問題を抱える方の捉え方の一つに、「私が悪いからだ」と考えておられる場合が多く見受けられます。
そのような方たちの考え方の根底にあるのは、「良い」「悪い」という二値的な価値観です。まぁ、白か黒かをはっきりしたいというわけです。

考え方を明確にするため、極端な話になるかもしれませんがAさんが空き巣に入られたとします。その時、Aさんはたまたまどこかの窓の鍵をかけ忘れていて、どうやらそこから空き巣が侵入したとします。

この時、一体誰が悪いのでしょうか?
入った空き巣が悪いのか、窓の鍵をかけ忘れたAさんが悪いのか、です。

空き巣の言い分として考えられるのは「たまたま近くを通りかかったら窓の鍵が開いていて人がいそうもなかったのでムラムラと誘われるようにして空き巣に入りました。窓の鍵をかけ忘れた家の人が、私が空き巣をするように仕向けたのです」

一方、Aさんの言い分としては「どんな状況においても人の家に入るのは悪いことだ。空き巣が悪い」ということになるかもしれません。

お互いに、相手の非を非難し、「自分は絶対に悪くない」「自分はそれほど悪くない」を主張するわけです。

当事者ではなく、この状況を客観的に見ることができる皆さんはどのように感じられるでしょうか?

「確かに、人の家に侵入した空き巣は悪い。でも、窓の鍵をかけ忘れたAさんにもいくばくかの非があるのでは?」と感じられるのではないでしょうか?

盗人にも三分の理ですね。

すなわち、世の中に生じる事象の多くは、どちらか一方が悪くてどちらか一方は絶対に悪くないということはほとんど無くて、相互の関係性の中で何かの出来事が生じるのです。

換言すれば、世の中は「白」と「黒」に分けられるものではなく、その中間の状態{灰色}の状態が存在するのです。

特に人間関係にまつわる事柄は、それぞれの考え方や行動原理、感じ方が異なるわけですから、「灰色」の世界ばかりと言っても過言ではありません。

少し本筋からズレる話になりますが、実は「私は悪くない」との主張を展開する人の心の中には「私が悪い」という気持ちが潜んでいます。

空き巣には空き巣をしたという背徳感があり、その全てを自分の責任だとしてしまうと自分を全否定することになって耐えられないので、「少しは背徳感を軽くしたい」という思いから「相手も悪い」という主張を展開するのです。

一方、Aさんも心のどこかで「鍵をかけ忘れた自分が悪い」という気持ちがあるので、自分を責める辛さから逃れるために「空き巣が悪い」ことにしたいのです。

特に、「自分は絶対に正しい、相手が正しくない」と強硬に主張する人には、起こっている出来事より心の深い部分、根本的な部分で、感じたくない強い「罪悪感」のお友達が潜んでいるのです。何らかの「罪悪感」を感じることで、心の深い部分に潜んでいるより根本的な罪悪感が刺激されることを怖れて、ほんの僅かの罪悪感を抱くことにも抵抗が大きくなるのです。

さて、では冒頭でお話しした「私が悪い」と起こった事柄の全ての責任を自分のせいにする人には一体どんな心理が働いているのでしょうか?

実は、このような人達も心の奥深くに大きな「罪悪感」が潜んでいます。否、もっとより深いて大きい「自分は罰を受けるにふさわしい存在」という感覚がどこかに潜んでいます。

人間が持っている自分自身のイメージを、心理学では「自己概念」と言います。
もし仮に、あなたが人に迷惑を掛けてばかりいたり、力が及ばずに助けたい人を助けられなかったりしたと思ったときにどのような事を感じるでしょうか?
「私なんて存在する価値が無い」「私は無力だ」と感じるのではないでしょうか?

例えば、クラス対抗のサッカー大会で自分のせいでいつも負けてクラスメイトに迷惑をかけてしまったらどうでしょう?
私の存在価値はない、いない方がいいと思うのではないでしょうか?

また、例えば友人が溺れそうになっているとき、友人を助けようとしたが自分では助けられなかったとしたら何を感じるでしょうか?
自分は無だと思うのではないでしょうか?

このように自分には価値がない、自分は無力だと思うと、「無価値で無力な自分」という自己概念が出来上がります。
そして、私たちにはこの自己概念を証明しようとする力が働くのです。

例えば、「自分には派手な服は似合わない」という自己概念を持つと、洋服選びは自己概念に合わせた地味な服を選びますね。また、自分は「人から嫌われている」という自己概念を持つと、人から嫌われるような行動をとります。「どうせ私は嫌われているんでしょ」とそれを証明するような人から見て嫌な言動をするのです。

同様に、「無価値で無力な自分」という自己概念は、自分の無価値さや無力さを証明しようとするように行動させます。そしてその結果が「存在価値のない、無力な自分を、どうぞ罰してください」ということになるのです。

ところが、世の中には罰してくれる人たちばかりではありません。
それで、自分で自分を罰することが習い性になってしまっているのです。
「私が悪い」と何でも責任を引き受ける人は、実は自分で自分に罰を与えようとしているのです。

冒頭でお話ししましたように、物事は「黒」と「白」で出来上がっているわけではありません。「私だけが悪い」わけではなく、そのような結果を生む理由や背景があるのです。
特に人間関係で生じる問題は、人と人との相互作用なのです。

「私が悪い」と感じてそれに浸っているよりも、客観的な目を持ち「人と自分の問題に境界を引く」ことを心がけると、抱える問題を少なくすることができると思います。

(完)

この記事を書いたカウンセラー

About Author

恋愛や夫婦間の問題、家族関係、対人関係、自己変革、ビジネスや転職、お金に関する問題などあらゆるジャンルを得意とする。 どんなご相談にも全力投球で臨み、理論的側面と感覚的側面を駆使し、また豊富な社会経験をベースとして分かりやすく優しい語り口で問題解決へと導く。日本心理学会認定心理士。