私の存在理由は、私の内面にある
私たちは、それぞれの年代ごとに特有の課題を抱えます。
発達心理学者エリク・エリクソンの「心理社会的発達理論」では、年代ごとに誰しもが通過する8つの発達課題(危機)があり、人はそれぞれの課題をクリアしながら発達(成長)していくと述べています。
「発達心理学」と聞くと、子供の頃の心の発達に限定されると捉えられる方もいらっしゃるのではないかと思いますが、決してそうではありません。
私たちの心=内面は日々変化し、発達=成長します。
「発達心理学」は、生まれてから死に至るまでの期間の心理的発達(成長)を取り扱う学問なのです。
先日、齢80を過ぎた叔母から電話がありました。
1人の兄と3人の姉からなる5人兄妹の末っ子で、長男は先の太平洋戦争で戦死、姉は皆家を出て嫁ぎ、その中で実家を守ってきた方です。
色々な話をしている中で、ふと「この年になってようやく自分が生まれてきた意味が分かった」と話をされていました。
どのように自分が生まれてきた意味を理解されたのか、自身の人生の意義を咀嚼されたかは話題に上りませんでしたが、その言葉から今まで「がむしゃらに頑張ってこられたんだなぁ」ということはわかりました。
あの、優しくて力強さを感じる叔母の内面を垣間見ることができた瞬間でもありました。
さて、私たちが青年期頃から抱える発達課題の一つとして「アイデンティティー」の確立があります。
「アイデンティティー」とは、「自我同一性」や「自己同一性」と訳されますが、「アイデンティティー」の確立を平たく言えば「自分は自分であり、他者とは異なる存在である」ことを自覚することです。
過去から、現在、未来においても「自分は自分であり続ける」という連続性の感覚も伴います。
すなわち、この世界の中での自分の存在理由は、自身の内面(心の中)に帰着するというということになります。
この「アイデンティティー」の確立に失敗すると、自身を見失い混乱することになります。
私の存在理由を自身の内面に求めることができず、「私って誰?」「私って何?」という投げかけを社会とのかかわりの中で他者に求めたり、自己否定的になって他者に存在意義を求めたりしようとします。
言わば「自分探し」の旅を続けるのですね。
そのような状態では、社会とのかかわりが不安定な状態になります。
人間関係で問題を作ったり、仕事がうまく進まなかったりということになりかねません。
そのような環境の中で生きていくのですから、自身の心もまた不安定になりがちです。
依存的な側面が強化されたり、過度な競争心を持って結果に一喜一憂したり、自分で物事の判断が出来なかったりということが起こります。
もっとも、自分の青年期のことを考えると、果たしてアイデンティティーの確立がしっかりとなされていたかは疑問に思います。
「自分は自分で唯一無二」と明確に思っていたかと問われると、そうではなかった気がします。
自分の存在理由も明確ではありませんでした。
ただ、「生きているから生きている」という事実のみが漠然とした存在理由になっていたような気がします。
それでも、社会とは関わりたいという意思を持って関わり、生きて来られたことは、世の中が、また私の周りの人々が寛容だったからかもしれません。
さて、アイデンティティーが拡散すると問題を抱えることが多くなりますが、それらの問題は積み残されている「アイデンティティーの確立」という課題を解決するための宿題としてやってきます。
私たち人間は「快」の状態にあると変化を望まず、そのままの状態を継続したいと思いますが、「不快」な状態ではそれを変化させようとします。
「不快」な状態、すなわち何がしかの問題は、クリアしてこなかった課題を解決するためのスイッチなのです。
問題は無いに越したことはありませんが、残念ながら私たち人間は、完全ではありません。
従って、何らかの問題を抱えます。
この問題こそが積み残した課題解決の原動力であり、生じた問題の内容は課題を明確にするための示唆に富んでいます。
問題は、一見自分の外側からやってくるように思いますが、実は自分の内面にある未解決の課題から発しています。その証拠に、同じ問題に対して自分と他の人がどのように反応するかは異なります。反応の仕方は人それぞれで、それはその人が課題に対して今までどのように取り組んできたか、これからどのように取り組もうとしているのかの違いに他ならないのです。
ところで、アイデンティティーの確立は、何も青年期に限ったことではありません。壮年期には壮年期のアイデンティティーがあっていいはずですし、老年期には老年期のアイデンティティーがあるのではないかと思います。ただ、それら年代ごとのアイデンティティーの芯になるのは、青年期頃の課題である最初に確立されたアイデンティティーとその確立経験ではないかと思います。
私の存在理由は、私の内面にあるのです。
(完)