子育てで、すべて思った通りだったと思う方は、少ないのではないかなと思いますが、いかがでしょう。
というのも、私自身、子どもがずっと好きで、赤ちゃんなんか、特に大好きで、知り合いに赤ちゃんがいると、抱っこさせてもらって、ウヒャウヒャ喜んでいたクチだったんです。
妊娠した時、こう思いました。
「赤ちゃんがうちにずっと居るなんて、嬉しすぎる!
毎日毎日一緒なんて、すごい!
それに私の赤ちゃんだなんて、楽しみすぎる!」
と、思っていたんです。
大きなおなかを抱えては、早く会いたい!早く抱っこしたい!!って思っていました。
そして、娘が生まれてみたら、あら、びっくり!
こんなはずじゃなかったことが、勃発。
今日は、そんな想定外子育てに奮闘するみなさんへ、それでも、子どもたちの価値を忘れず、生涯にわたる、理解者、応援者でいましょう、というお話です。
■想定外だらけの子育て
娘を産んでみたら、可愛いんだけど、可愛いなんて言ってられことが。
赤ちゃん、全然寝ないっ!
実家に里帰りしていた間も、夜になるのが恐ろしくなるほどで、一晩中抱っこしたまま、おっぱいをあげたり、あやしたり、寝たと思って、寝かせると、あっというまに起きて泣く。また抱っこして、おっぱいあげて・・の繰り返しで、新聞屋さんがやってきて、夜が明けるということが、毎晩繰り返されていました。
「赤ちゃんて、いつも寝てる生き物じゃないの?!」
寝ない原因は、おっぱいがあまり出てなかったからだとわかってからも、
「おっぱいって、赤ちゃん産んだら、出るものじゃないの?!」
って、思っていました。
3年後に息子を産んだのですが、息子の場合は、だんだん大きくなるにつれ、ちょろちょろしまくるし、待てないし、走ったら、どこまでも行っちゃうし・・
私は、「待てー!止まれー!」って言っても、止まらないので、追いかけてばっかりで、私の、想定を越えることばかりでした。
さらに大きくなってくると、またまた、いろいろと起こります。
■一般的とか常識とか
息子は、もともと、幼稚園も学校も行きたがらない子で、毎朝、行くの行かないのと、私や夫と押し問答していました。
中学に入ると、行き渋りがひどくなってきました。
毎朝押し問答、子どもも苦しそうでしたし、
私たちも、非常に苦しかったんです。
もうヘトヘトのある日、夫と決めました。
「もう、行けって言うのやめよう。」
言うのを止めた翌日から、学校へ行かなくなりました。(これは、想定内)
そしたら、こんなことが起きました。
私と夫が、楽になったんです。
しばらくすると、思い詰めたような顔をしていた息子も、元気になってきました。
ゲームもしなくなっていたほどでしたが、元気にゲームするようになりました。
あんなに「ゲームするな、するな」と言っていた私でしたが、その時は、ゲームをするようになった息子を見て、ものすごく嬉しかったです。
親なら、不登校の子どもにゲームさせたらダメでしょうか。
ちゃんと、学校へ行かせないといけなかったでしょうか。
一般的には、甘やかしたことになるでしょうか。
常識で考えたら、ダメな親でしょうか。
自問自答しました。
でも、息子が元気になったなら、よかったって思っています。
息子にしてみたら、親がピリピリしているほうが、辛かったんだろうなって思うから。
結果、私たちが楽になったことが、息子にとっても、よかったように思います。
■私たちの中の基準
一般的には、常識的には、と考えますよね。
どれを基準にしてよいか、わからない時には、特にそうなります。
でも、それが、その状況に合っているかどうかは、わかりません。
むずかしいものです。
子育ての問題は、その子その子で違いますし、こうしたらいいという方法も、子どもたちだけでなく、親にとっても合っているのかどうかは、大事はポイントだと思います。
私たちの中にある基準も、人それぞれのものがあるはずです。
それは、先述したように、一般的とか、常識というものに照らし合わせたものだったり、自分の生きてきた歴史に照らし合わせることもあるでしょう。
私たちの親に言われたこと、誰か著名な方が言っていたこと・・そういうものもあるかもしれません。
今回の出来事で、私の場合、自分の生きてきたように、子どもが進んでいくことを想定し、期待していたことに気づきました。
それを強要しようなんて、思ってはいませんでしたが、学校に行くことが「当たり前」と思っていたことは、息子にとっては、強要と似たようなものだったと、今はわかります。
「学校へ行かなければ、大変なことになるはずだ。」
と思い、それが脅迫みたいになって、私を追いかけていた時がありました。
そして、追いかけられた私が、息子を追い立てていたのかもしれません。
息子の人生は、私のものではないのに。
■子どもにとっての良きもの
息子は、気が済むまで休むと、ちょっと学校へ行く気になったようでした。
学校からの提案で、別の教室に居場所を作ってくださいました。そこでは、息子は安心して居られると言っています。
今では、ほぼ毎日、遅刻しつつも、学校へ行けるようになりました。
お友達もいて、楽しそうです。
子どもの未来は、まだまだ続きます。私たちよりも、長い未来が待っています。
その未来が、子どもにとって、良いもので幸せで、楽しいものであって欲しいと、親なら心から願いますよね。
その未来に、今がつながっているから、親である私たちの心配も尽きないわけです。
つい自分の生きてきたようにと思ってしまいますが、それができない時、子どもは不幸になっちゃうのでしょうか。
いいえ、そんなことはありませんよね。
というか、私の生きてきたとおりに、子どもが生きたとして、私は、安心するかもしれませんが、子どもにとっては、それが面白ものとか、良いものって思うかどうかはわかりませんよね。
もしかしたら、「つまんない」なんて言われるかもしれません。
子どもにとって良きものとは、ちゃんと、子どもを見て、その子どもに合ったものでなくてはですよね。
誰かと同じでは、きっとないと思います。
■親としてできること
自分で産んだ子どもなのに、子どものことがわからない、なんて思うこともあります。
でも、産み落とした以上、同じ人間ではないんです。
まだ未熟な子どもであっても、ひとりの人間なんですよね。
だから、わからなくて当然なのかもしれません。
親としての責任はありますが、ひとりの人間として、見てあげること、何が好きで、何が苦手で、こんな良いところがあって・・などなど、ちゃんと理解し、その全てを大切にあつかってあげることが、すごく大事だなと思います。
できることも、できないことも、両方、大事にして、受け止めてあげることで、子どもは元気に生きられるように思います。
ただただ、どこまでも、理解者であり、応援者であること。
それが親としてできること・・というか、そのくらいしかできないし、そのくらいはしてあげたいと思います。
親の想定を超えて、歩いていく子どもたちを、心配だけど、信頼して、応援できたらいいなって思います。
最近、息子は、どんな人生を歩くんだろうって、思う時があります。
1年前だったら、想像する勇気すらなかったかもしれません。
元気で楽しそうなら、教室に入れなくても、テストの点が悪くても、ま、いっかって思えるようになった今、息子は、きっと、私の知らないやり方で、私の思いつかないような人生を、歩いて行くんだろうな。
そうだとしたら、ちょっと、楽しみな気がします。
元気で長生きして、見てみたいなぁ、なんて思います。
いろんな子どもに対応するという、教育の流れがあったり、社会の動きがあったり、私たちの考え方にも変化があったり、未来は、誰にでも居心地のよい場所になっていこうとしているように感じます。
学校に行けても、行けなくても、半分半分でも、子どもの価値に、変わりはありません。
親として、うんと可愛がって育てること、褒めちぎること、寄り添うこと、いつも忘れないようにしたいですね。
最後まで、お読みくださって、ありがとうございました。
お役に立つことがあれば、嬉しいです。
来週金曜日は、いしだちさカウンセラーがお送りします。
どうぞお楽しみに。