私たちは、愛されていないわけじゃない、だけど、私の望む愛の形じゃなかった、という不満を感じることが多々あります。
いつだったかの、私の誕生日のことです。
母は私に聞きました、何か誕生日プレゼント欲しいものある?どこか食事にでも行く?と。
その時私は、ケーキをリクエストしました。
「バースデーケーキが食べたい」と。
私の描いていたバースデーケーキのイメージでは、生クリームと苺のホールケーキでした。
でも、母は、1人分に切ってある、普通のケーキを何種類か買ってきたのです。
「いろいろ買ってきたよ」と。
その時の私は、正直、「え!?」と思いました。
いやいや、バースデーケーキって言ったよね?これは普通のケーキで、バースデーケーキではないよね?と、さすがにもういい大人ですから、口に出してまでは言いませんでしたが、どうしてこうなったかな?という不満を感じました。
母はどうやら、ケーキ屋さんに着いたら、いろいろ美味しそうに見えて、私がケーキ好きなことを知っているので、あれもこれも食べたいだろうと思ったようなのです。
昔から、私と母とでは、いろいろなものに対する好みがだいぶ違う部分があります。
例えば外食をするにしても、母は昔から比較的和食を好みますが、私は外でしか食べられないような珍しいもの選ぶ傾向があります。
着るものにしても、母は着やすさや着心地を重視しますが、私は見た目などに惹かれることの方が多いです。
何が良いか悪いかというよりも、母娘で昔からとにかく好みが違うのです。
私は、いつもお母さんとは合わない。私が我慢して妥協して、お母さんに合わせるか、お母さんが私に合わせて我慢してくれなきゃ、と思っていました。
でも実はこの感覚、自分が我慢するのも、母に我慢させるのも、私の中ではなんか嬉しくないんですよね。
母に我慢させるのも、なんだか悪いこと、可哀そうなことをしている気分になる。
だったら私が我慢した方がマシじゃない、と自分で抱え込む、なんてことがよくありました。
しかし、どこかでその我慢は限界を迎えるんですね。
そして、その後起きることは大爆発。
なんで私ばっかり!という、犠牲心の大爆発です。
大人になって、心理学を学び始めても、
「お母さんの愛を受け取りましょう」なんて言われるときはたいてい、
お母さんが愛してくれていることはわかっている。
だけど、私の欲しいものはくれなかった。
私のしてほしいようにはしてくれなかった。
私の求めている愛情の形じゃない!
という思いがずっとどこかで残っていました。
根本的に愛してくれていたのはよくわかっていたのです。
決して母は私を見捨てたりはしないし、嫌ったりもしない、
でも、いてほしい時にはいてくれなかった、
かけてほしい言葉もかけてくれなかった、
それが例え母なりの事情があったにしても、
私の欲しかった愛情の形ではなかった。
なかなかこの根強い不満感はそう簡単には消えませんでした。
しかしこれって、そもそもな話、母は、私に我慢させて妥協させたかったのか、はたまた母自身は我慢していたのか?というところなんですよね。
もしも、母にそんなつもりはなかったのだとしたら…
母には母の理由や都合があったのだと思うのです。
例えば食事。
私自身、昔に比べたら、食事の好みが変わってきたな、と思うのです。
外食するのも、和食系が増えてきたし、別に外じゃなくても、うちで作っても良いようなものを、外で手軽に食べることも増えてきました。
洋服も、見た目重視なところもまだありますが、着やすさ、着心地、素材も大切だな、と思うようになってきました。
もしかして、母は私に、私の世界を広げようと、教えてくれていたということ?
こっちにもこんな良いものがあるよ?
こんな選択肢もあるよ?
それは決して、母の意向を押し付けるためではなく、母の知っている、母がより良いと感じた世界を、私の選択肢にプラスしようとしてくれていたのだと、感じたのです。
それは、母の愛し方だったのか、と。
そして、母の誕生日が来ました。
私は、1人分に既にカットしてあるケーキをいくつか母の好きそうなものを何種類か選んで箱に詰めてもらうことにしました。
せっかくお誕生日でしたので、その一つ一つにネームプレートを付けてもらい、そこに母へのお誕生日メッセージを乗せてもらうことにしました。
普通であれば、お誕生日用のホールケーキを迷わず選んでいた私ですが、ここはひとつ、母の好みに合わせることにし、母が喜んで、いろいろ好きなものを楽しんでくれると良いな、という想いでお誕生日のお祝いをしました。
私たちは、自分が我慢して犠牲になっても、相手に我慢させて犠牲させても、どちらも嬉しくないんです。
やはり嬉しいのは、相手も自分自身も、喜びと楽しみを感じていられることですよね。
私はこうして欲しいのに、私はこう愛して欲しかったのに
そんな不満を感じたとき、まずはその人はどうしてそうしたんだろう?と考えてみると、別の愛し方が見えてくるのではないかと思うのです。
そして、その相手の愛し方でその人を愛してみる。
すると不思議と、愛が伝わりやすくなります。
犠牲でも、我慢でもなく、本来望む、愛し愛される楽しさと喜びを、2人で感じやすくなりますよ。