無力感からの解放を目指して
○無力感からの解放を目指して
さて、4回シリーズの最後は「無力感からの解放」についての考察です。
どのようにすると、無力感から解放されていくのか、をまとめていきたいと思います。
まず、大切なポイントは第2回目の記事にある以下の記述にあります。
『多くの人の中には「誰かの役に立ちたい」「人の喜びになりたい」という気持ちがあると言われています。だからこそ、「誰かの役に立てない」「人の喜びになれない」と思うと、自分を許せなくなるとも言われています。』
つまり、僕たちには誰かの役に立ちたい、人の喜びになりたいという気持ちがある以上、それがうまくできない自分を許せないと感じることはある、と理解することは重要です。
何かができない、大切な人のためになれない、という自分を感じれば、多くの方が心を痛めるものなのです。
ただ、その痛みの大きさは「大切だ」「愛したい」「助けになりたい」と思う気持ちが強くなればなるほど大きくなる傾向があるともいえます。
それは子供時代、愛着を持って大切にしていたおもちゃが壊れたときに感じる悲しみと、そこまでの思い入れがなかったおもちゃが壊れたときに気持ちの違い、というふうに例えられるかもしれません。
何かを大切に思い、その大切な何かがなくなったり、傷ついたりするならば、大変に悲しい思いをするものではないでしょうか。
この心を痛めたときに「自分を責めるのか」、その痛みや葛藤を通じて「自分がやりたいことをもう一度再確認するのか」の違いは、無力感に飲まれるかどうかの違いになります。
無力感は罪悪感の一形態なので、もし自分自身を責めるとしたら
「こんな無力な自分は誰も愛してはいけない」
「誰のことも大切だと思ってはいけない」
と、自分の中にある愛や、誰かを思う気持ちを封じたり、自分を毒扱いしてしまうことにもなるのです。
これが「私は誰も愛していない」「誰の助けにもなっていない」という「何もしていない(できない)罪悪感」を更に呼び込んでしまうのです。
そして、現実的に誰かの役に立とうとしたとき「できない」と感じることを怖れすぎて、自分自身に過剰なプレッシャーをかけてしまったり、人の目を気にしすぎてしまうことにもつながるのですね。
しかし、自分を責める気持ちがあったとしても、心の奥底にある自分自身の本当の気持ち
言い換えるならば「無力感を感じるに至った行動を作った行動の動機」まで見つめることができるなら、できない自分を責める選択は間違いだと気付けるかもしれません。
今自分にできること、感じること、誰かを思う気持ちに価値がある、という視点を取り戻せるかもしれません。
○無力感を超える貢献意識
もし、無力感を超えることを考えるならば、単に力をつける、能力を磨くことだけではなく
「自分が誰かを大切にする力や愛情を持つことを許す」
という視点が求められることが多いです。
無力な自分を嫌って力をつけたり能力を磨いても、なかなか無力感が消えてくれないことも少なくありません。
なぜならば、無力感のルーツには「大切な誰かを愛したい、喜ばせたい、助けたい」という心の奥底に眠る目的が存在していたことが多いからです。
この目的が達成できないままでいることが、無力な自分という感覚を作っている場合が多いともいえます。
つまり、ただ失敗しない自分になろうとしても、いつまでも「できない自分になったらどうしよう」という気持ちが消えないままになりやすいという部分も、無力感が持つ罠一つと言えるでしょう。
頑張って自分を磨いても自信を感じられない理由の一つがここにあるのです。
だから、無力感を超えるために
「貢献意識〜大切な誰かを助けたい、喜ばせたい、愛したいという気持ち〜」
をもう一度自分に許すことが求められることが多くなります。
それは自分自身の貢献意識を大切にする視点だけでなく、自分自身が他者に対する愛をもう一度持つことです。
また、自分が無自覚にでも批判している「無力さを抱えている誰か(親、家族、権威、仲間など)」を理解し許すということによって解放されていくことが多いものですね。
特に親などが無力感を抱えている場合、その子供は無力である親や無力感を受け容れること自体を大変に嫌がるという意味で、無力な自分を許すことができなくなることが少なくないです。
ただこのような場合も、親が無力であってほしくなかった、それぐらい親の価値を見ていた自分がいた、とも言えるのではないでしょうか。
そんな自分をもう一度許し、「大切な誰かを助けたい、喜ばせたい、愛したいという気持ち」を取り戻せたとき、無力感を超えて「できない」より「できる自分」を意識することができるようになるでしょう。
(完)