いちばんいやなのは、「嫌いな自分」に出会うこと
こんばんは
神戸メンタルサービスの平です。
私たち人間はいつも頭の中でいろいろなことを考えていますが、考える目的の8割は、なにかから自分を防衛するために警戒することだともいわれています。
一方、私たち人間には感情というものがあり、これはいつもなにかをあなたに感じさせています。感情は思考と対極にあります。
たとえば、お見合いをして、すべての条件が完璧な相手なのだけれども、「なにかいや」とか「なぜか嫌い」と感じることがありますよね。
人を好きになったり嫌いになったりということは、理屈ではなくて感情の働きに左右されることが多いようです。
そのため、「あの人はやめておきなさい」と言われるような人を好きになってしまうこともあれば、評判がよい人であっても、なぜか嫌ってしまうということも起こるわけです。
では、どういうときに私たちは人を嫌いになっていくのでしょうか?
私たちは自分の中に「好きな自分」と「嫌いな自分」とを持っています。
たとえば、人にやさしくしたり、人を愛してあげている自分のことは大好きですが、だれかを怒っていたり、だれかを恨んでいるような自分はとても嫌いです。
ですから、「嫌いな自分」はできるだけ抑圧し、心の奥に閉じこめて、そんな自分を表現しないように努力して生きているのです。
しかしながら、感情というものは共鳴しますので、もし、目の前にあなたのことを怒っている人がいるとしたら、あなたの心の中に隠していた怒りの感情が共鳴し、その感情は強化されます。
そして、その人の怒りが強ければ強いほど、、あなたも隠していた怒りを隠しきれなくなってきます。
ところが、ふだんから怒っている自分が嫌いなわけですから、もし怒ってしまったら、あなたは「嫌いな自分」を表現してしまったことになります。
すると、「自分をそうさせたのは、この人だ」とあなたはその人のことを嫌いになっていくわけです。
同じように、人の悪口ばかり言っている人と会話すると、あなたもつい、だれかの悪口を言ってしまいがちです。
すると、その人としゃべるといつもあなたは「嫌な自分」と向き合うことになってしまいます。
そのたびに、自分に対して嫌な感情を抱き、それがひいては「したくもないことをあの人が私にさせる」と思い、その人のことを嫌いになっていきます。
つまり、嫌われる人というのは、相手が隠しておきたいと思っている「大嫌いな自分」を引っぱり出してくるような人のことをいうわけです。
あなたが自分に「禁止」していることは何?
人間の心の中にはいろいろな自分が存在します。
多重人格という言葉がありますが、私たち全員、じつはものすごい数の人格をもつ多重人格者なのです。
しかし、それでは自分が混乱してしまいますので、「これが私だ」と自分のことを定義づけ、日常生活ではそれを表現しながら生きています。
そして、私たちは心のどこかで「いい自分」を表現して生きていきたいと感じているのですが、さまざまな対人関係のなかで、実際にはそうとばかりもふるまっていられず、いろいろな自分に出会うハメになるのです。
私たちは嫌いなタイプの人をとてもたくさんもっていますが、その人のどこが嫌いなのでしょう?
たとえば、あなたが「課長はよく怒るから嫌いだ」と思っているとしたら、あなたがほんとうに嫌っているのは、課長ではなくて、「怒り」という要素かもしれませんね。
そして、あなたが「怒り」を嫌っているとしたならば、「自分がもし怒ってしまったら、自分が課長を嫌っているように、世界にいるすべての人に自分も嫌われる」と感じています。
それで、そうならないために、怒らないように、怒らないようにと必死で生きているわけです。
にもかかわらず、課長ときたら、あなたが自分に禁止している「怒り」を平気で表現しているわけですから、これはおもしろいはずがありません。
私たちは、自分に禁止していることを平気でしている人を見ると嫌いになるものです。
しかし、逆説的に考えてみると、あなたがだれかを嫌いだということは、「その人がもっているなんらかの要素を、あなたが自分に禁止しているということなのだ」ともいえるのです。
このように、あなたが禁止していることを平気でしている人のことを、心理学では“シャドー”と呼びます。
そして、私たちは表面的にはシャドーのことが大嫌いです。
でも、同時にそのシャドーには哀れみも感じているのです。
「そんなことをしていたら、嫌われてしまうよ。友だちがいなくなっちゃうよ」と、なんとかそのシャドーを助けてあげたいともじつは思っているのです。
ところが、私たちはこのシャドーをどう助けてあげればいいかわからず、扱いかねています。
実際、シャドーはあなたの身近な人であることが多く、その人のことをあなたがどうしてあげることもできなかったという場合が多いのです。
たとえば、おとうさんが亭主関白で、おかあさんがいつも泣いて暮らしていたとします。
すると、あなたは二つのシャドーをもつことになります。
一つは、亭主関白なおとうさん。おとうさんのせいでおかあさんは不幸になったと思いこみ、亭主関白な男性を嫌います。
もう一つは、いつも泣いてばかりいるおかあさん。
おかあさんが泣いている姿は嫌いでしたから、泣いてばかりいる女性も好きではありません。
あなたは心のどこかで、おかあさんを助けてあげたいと思っていました。
でも、どうしたらいいかわからず、おかあさんを笑顔にしてあげることができないと自分を責めていました。
つまり、あなたのほんとうのシャドーは、泣いているおかあさんではなく、そのおかあさんを「助けてあげられなかった自分」なのかもしれません。
同時にあなたは、自分があのおとうさんの「喜び」になることができないから、おとうさんが怒り続けているのではないかとも感じていました。
こうしたケースでは、 「人の喜びになれない自分」がシャドーとなっている場合もとても多く見られます。
そして、いま、会社には、泣いてばかりの新入社員や怒ってばかりの上司がいます。すると、「助けられなかった自分」、「人の喜びになれない自分」を感じてしまうために、その人たちを嫌ってしまうことが多いのです。
来週の恋愛心理学もお楽しみに!!