自己嫌悪はそれと同じ部分をもつ人への他者嫌悪につながる
◆親から愛されるために作ったペルソナ(仮面)=シャドウ
パートナーは「合わせ鏡だ」とよくいいます。心理的にとても近い距離にある相手は、自分のなかにある「ここは嫌いだ」というシャドウを映し出す鏡にもなります。
たとえ話をひとつしましょう。ある女の子はとても躾が厳しい家庭に生まれました。大声ではしゃいだり走り回るとお母さんにきつく叱られました。言いつけを守ればお母さんは機嫌が良いけれど、守らないと機嫌が悪くなるのです。
同級生が放課後の公園で楽しそうに遊んでいるのを羨ましく思いながらも、お母さんに言われたとおりに塾に通ったりします。すると、表向きのキャラとしては「真面目な良い子」になり、まわりの人からもそういう子だと思われるようになります。女の子も「自分はそういう性格だ」と思い込むようになります。
しかし、お母さんの機嫌を悪くしないために、公園で走りまわるような「自由奔放な自分」が抑圧されたまま大人になっていきます。自由奔放な自分は、「絶対に出てきちゃダメだからね!」と牢屋に閉じ込めただけでいなくなったわけではないのです。
◆シャドウはもうひとりの自分
シャドウの多くは幼少期から作られていきます。親に愛されたくて作ったペルソナ(仮面=まわりの人に見せる自分)があり、その下に隠されているのが抑圧した自分(シャドウ)になります。
シャドウは、「抑圧した自分」「生きられなかった自分」「切り捨てられた自分」「拒絶した自分」「隠蔽した自分」そして、「もうひとりの自分」のことをいいます。
パートナーは鏡。すると、抑え込んだはずの自分が映し出されるのです。
わがまま放題の子供っぽいパートナーとして。自分の好きなことにだけ没頭するパートナーとして。やりたくないことはハッキリと嫌だというパートナーとして。こちらの気持ちなんて考えずに、言いたいことを言うパートナーとして。
投影の法則を学んだことがある皆さんは、許せない人や苦手な人がいるときに、「もしかしたら、上司に父親を投影しているのかな?」「パートナーに元彼を投影しているのかな?」と考えることができるようになっていると思います。
そこにプラスして、パートナーぐらい近い距離感になると「自分自身を投影しているのではないか?」「自分自身の自己嫌悪を投影しているのではないか?」という考え方を取り入れてみると、さらに理解が深まるかもしれません。
パートナーに嫌な部分が見えたときには、自分が抑圧した部分が映し出されているのかもしれないということです。「だから、嫌なのだ。だから、ムカつくのだ」と。「パートナーに見えている嫌な部分は、じつは自分自身のなかに元々あったもの」ということを受け入れて、認めることが求められているのです。
そんな部分が自分のなかにあると認めることは、すごく屈辱的なことです。それを認めたらますます自己嫌悪してしまうかもしれません。しかし、あなたのなかに自己嫌悪がある限り、パートナーがあなたのシャドウとなって、あなたの嫌な部分を見せつけてくることが、いつまでも続くのです。
何度も言いますが、パートナーは鏡ですから。なので、パートナーの欠点を愛するということは、自分の欠点を愛することになります。逆説的に言えば、自分の欠点を愛することは、パートナーの欠点を愛することにもなります。
だからこそ、相手の嫌なところが見えたときには、自分が嫌悪している部分を愛するチャンスがやってきているということもできるわけです。
■シャドウは生きることができなかった「もうひとつの人生」を教えてくれる
心理学的には、「長所と短所は表裏一体」と考えます。ひとりの人間がもつ性質を、光の方向から見ているか、闇の方向から見ているかの違いだといわれています。「わがまま放題子供っぽい」と見れば短所ですが、「好奇心旺盛で夢中になりやすい」と見れば長所にもなるのです。
表裏一体なのですから、短所を封印すると短所も封印されます。わがまま放題子供っぽいパートナーの短所を嫌えば嫌うほど、自分のなかにある「好奇心旺盛で夢中になりやすい」という長所を使うことがタブーになっていきます。
だから、シャドウが現れたときには、こう問いかけてほしいのです。「私は自分に何を許していないのだろうか?」と。生きることができなかった「もうひとつの人生」を教えに来てくれるのがシャドウなのですから。
(完)