退屈ほど怖いものはない(2)~その「安心」、ホンモノですか?~

私たちは、「安心」を手にいれるために、他人に自分の思い通りに動いてほしいと願い、そのように状況をコントロールしようと、多大な努力を払います。でも、残念ながら、それはあまりうまくはいきません。

コントロールされて嬉しい人はいないし、できたとしても、今度は、自分がその相手に魅力を感じなくなってしまうからです。コントロールを手放して、「傷つくかもしれない」という怖さを引き受けると「絆」という安心感を手にすることができます。

私たちは、未知のものを「怖い」と感じるものです。

「わからない」からどう対処したらいいのか「わからない」。ひょっとしたら自分にとって「いいもの」もしれませんけれど、万が一、「悪いもの」であったとしても「コントロール」できないので、不安だし、「怖い」という感情が刺激されます。

この「不安」で「怖い」気持ちも、程よい加減であれば、「わくわく、ドキドキ」で、「もっと見たい」「もっと知りたい」「もっと味わいたい」というモチベーションにできるし、何かに夢中になる情熱にもできます。

スリル好きの方は、あえてお化け屋敷に行っては「未知との遭遇」を楽しみ、どっちに振られるかわからない絶叫マシーンに乗っては、Gに身を委ねて、コントロール不能な状態のスリルを満喫しようとしますね。それくらい、「怖れ」と「わくわく、ドキドキ」は感情的に近いです。

心理学の実験で、「釣り橋効果実験」と呼ばれる有名な実験があります。峡谷にかかった風で揺れる「吊り橋」を渡る、という恐怖体験を共にした男女は恋愛感情を持ちやすい、と言われています。「怖れ」と「恋愛感情」は、混同するくらい似ているのです。「私は相手に愛されるかしら?」という「未知」の状況に遭遇するから、恋をしているときは「怖れ」をいっぱいに感じているのですね。

その「怖れ」を越えるくらいに相手に興味関心をもてるかどうかが、楽しい恋愛をする秘訣だとも言えます。

私たちは、つい傷つきたくないと思ってしまいますから、その「怖さ」をコントロールするために、「安心」のお墨付きを求めたくなります。

人によって、それは婚姻届であったり、収入や資産残高だったり、社会的地位であったりするわけですが、果たしてそれで本当に「安心」が手に入るでしょうか?

「どうなるかわからない」という「怖さ」が耐え難くて、つい自分で全てを決めたい、自分のシナリオどおりに人にも動いてほしい、と思うこともあります。

「わからない」=「怖れ」で、「わかっている」=「安心」なので、自分が「わかる」ように相手や状況をコントロールしたくなるのです。

でも、誰しも、自分がやりたいことは自分で決めたいし、やりたくないことは「やりたくない」と言いたいので、すべて相手に決められてしまうと、仮に、それが自分にとって都合のいいことでも、窮屈になります。

「しがみつけばしがみつくほど、逃げていく」のは、人も、お金も、地位も同じです。そして、執着すればするほど、失う「怖れ」と「不安」が強くなるという皮肉な結果が待っています。

仮に、相手がすべてあなたの言う通り、思い通りになってくれたとしても、多分、今度は、相手に魅力を感じられなくなります。なぜでしょう。

「未知」という「怖れ」の要素がなくなって、想定外がなくなると、私たちは「わくわく、ドキドキ」の感情も失うのです。相手がつまらなくなってしまうのです。

「怖れ」を「コントロール」しようとしてできなければ、傷つき、「コントロール」に成功すると、相手に飽きて退屈する。

これは、恋愛に限らず、仕事や、無我夢中に取り組んだ趣味でも同じです。頑張ってもできなければ傷つきますが、簡単に思い通りになってしまうと私たちは退屈してしまうのです。

そして、無自覚にでも、退屈がいやで、問題を作り出すようなヘマをしでかしたりもするのです。

ホンモノの「安心」は、結婚届のようなお墨付きでも、銀行の預金残高でもありません。他人や状況を思い通りにすることでもありません。

コントロールを手放して、自分が関わる相手の心の「自由」を認め、そのことで「傷つくかもしれない」という「怖れ」をお互いに引き受けると、そこに「信頼」が芽生え、「絆」が育ちます。

「一緒に吊り橋を渡る怖さを共有した」。

そんな「絆」こそが、「わくわく、ドキドキ」というときめきを失わずに、でも、「安心」できる「場」ももてる、一挙両得の「安全ベルト」なのです。

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