6月1日は母の誕生日、生きていれば、83歳になります。
子どもの頃は、定番ともいえる肩たたき券やお手伝い券、毎月お小遣いをもらうようになってからは、小銭入れやサンダル、社会人になってからは、母のリクエストに沿ったものを贈りました。
感情表現が乏しい母のわずかに見せる笑顔は、本物だったのだろうと思います。
ただ、母は幸せだったのだろうか?
母が亡くなってから、そんな疑問が沸き上がりました。
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昨年3月、母は足を骨折して入院しました。
自宅に戻れることを励みに、リハビリを続けてきたけれど回復しませんでした。
日中、母の世話をする人がいないことや自力で身の回りのことをするのが難しいと判断した私たちは、母に老人介護施設入所をすすめました。
嫌がる母を説得し、施設へ送り届けた帰り際、
「ありがとうございました」
と、私たち娘に向かって、母が丁寧にお礼を言ったのです。
「ありがとうでいいじゃない」
「なんで丁寧に言うの?」
笑顔でない無表情な顔、他人行儀に聞こえた言葉が、まるで“さよなら”を告げられたような気がしたのです。
それは、家に帰ることのできない諦めとともに、ここで一生を暮らす、母の決意だったのかもしれません。
その時に感じた小さなざわつき。
施設入所から4か月目を迎えることなく、母は帰らぬ人となりました。
葬儀は、母の世代や交友関係を考え、家族葬にしました。
母は、亡夫の地元に住んでいたので、親族の参列は想定内でしたが、母の娘である私たちの関係者も弔問してくださり会場は満杯になりました。
関係各所からの供花は8基、地味で控えめだった母がはじめて華やかに見えました。
私の予想をはるかに超えた式、それまで見知っていた母に別の顔があったのかもしれないと感じました。
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初七日を過ぎたあたりから、
「もっと温泉に連れて行けばよかった」
母は温泉が好きで、私たちによく連れて行ってと言っていたのです。
やらなかった後悔と “かわいそうだった”という言葉が浮かぶようになりました。
娘の立場から見ると母の人生が哀れに見えていたのです。
「母は幸せだったのだろうか?」
それを確かめるように、多くを語らない母から聞いた母の人生をたどり始めました。
九州の田舎町に生まれ、3歳の時に父親を事故で亡くす。
20歳で結婚し、23歳の時に家族とともに関西へ移り住む。
31歳の時に夫を事故で亡くし、九州へ戻る
この間、娘3人をもうけ、息子を生後半年で亡くしています。
父親、待望の長男、やさしい夫を次々と亡くし、どれだけの悲しみがあったのだろうか。
どれだけ大きな罪悪感を持っていたのだろうか。
4人兄弟の末っ子で働いたことのなかった母は、娘たちを育てるために必死で生きてきたのだろう。
その中で、優しい義夫母とその親族のサポートを受けられたことは救いだったかもしれません。
その母は、6人の孫と5人のひ孫に恵まれました。
周りの人たちからは、夫を31歳で亡くし、再婚することなく3人の娘を育てた立派な人、辛抱強い人と呼ばれていました。
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母が亡くなった後、叔母たちから聞いたのは、
「姉さんは優しくて、人が嫌がる仕事を文句も言わずにする人だった。本当に姉さんが好きだった。」
私が知っていた母は、コミュニケーションが下手で、話しも面白くない人、テキパキ動かない人に見えていました。
それが、子どもの目から見た母と大人から見た母の姿の違い。
そういえば、父方の祖父母が母をかわいがってくれていたことは子供ながらに感じていましたし、それにこたえるかのように母もまたぎ実家に尽くしていたな。
父の兄弟姉妹が母を温泉や旅行に誘ってくれていたことも思い出したのです。
母の人生を辿っていくと思わぬ恩恵がありました。
母がこんなにも周りから愛されていたこと。
無口な人だったけれど、母を助けてくれる人たちがいたことを知りました。
ようやく“母は幸せだった”のだろうと思えたのです。
幸せは人が決めるのではなく、本人がどのように感じているかなのです。
実のところ、本人に聞かなければわからないのに、母を不憫でかわいそうな人と認定していたのは私でした。
ずいぶん自分を癒してきたつもりだったけれど、まだ心の奥には”母への罪悪感“が残っていたのでしょう。
私たちは、大切な人に幸せでいてほしい。
それができなかったと自分を責めてしまうのです。
そんな時は、あなたが大切にしたい人をどれだけ愛しているかを、自分の中にある愛を思い出してほしいと思います。