今回担当させていただく大門昌代です。
どうぞよろしくお願いいたします。
職場や友人から「さすがは○○さん!うちにはなくてはならない存在だよ」や、「○○さんがいてくれて助かる」なんて言われると、とても嬉しいものです。
必要とされていると感じられますし、誰かが自分の存在によって、喜んできれると言うのは、格別ですからね。
しかし、そのように周りから評価される人の中には、犠牲的になりすぎて、自分自身は楽しめなかったり、犠牲に疲れ果てて人と関わることが嫌になってしまったりする人も、いらっしゃいます。
そんな人に、「犠牲的になりすぎていませんか?」なんてご質問させていただくと、「できちゃうんですよね」とか「気になって、つい色々なことをやってしまうんですよね」とか、「誰も気が付かないから、私がやった方が早いんですよね」なんてご返答いただくことが多々あります。
ご本人としては、「私は犠牲をしている」という自覚はなく、気がついちゃうし、できちゃうから、やっているだけという感じなのです。
でも、「それを気分よくやっていますか?」とご質問させていただくと、「気分がいいってわけじゃないですけど・・・」となることが多いのです。
「この気分がいいわけじゃない」と言うのが、犠牲しているかどうかのポイントだったりします。
例えば、子供の頃、弟や妹の面倒を見て欲しいと親から頼まれた。
弟や妹は、かわいいし、遊んであげると喜んでくれるから、嬉しいという動機であれば、これは犠牲しているとはならない。
ですが、自分も子供なわけですし、「今日は友達と遊びたい」と思っている時に、同じことを頼まれたとしたら、「えーー!嫌だな」なんて思うことがあっても不思議ではありません。
でも、そんな時でも、「お姉ちゃんだから」と、自分が遊びたいのを我慢して、弟や妹を遊んであげるとしたら、これは犠牲しているってことになるのです。
とは言っても、自分が遊びたいことを我慢してでも、遊んであげないと、弟や妹が可哀想だし、どう過ごすのかが心配になるから遊んであげるという、やさしさでもあるわけです。
やっていることは、とても良いことですし、「ありがとう」と感謝されたりもします。
周りから頼られたりもするし、あてにされることも多くなりますよね。
大人になっても、このパターンを持っていると、飲み会を企画して、みんなが喜ぶ場所を探してきて、場を盛り上げたり、誰かの飲み物が空になっていないか気にして、自分はちっともその場を楽しめなかったりします。
でも、多くの人から、「ありがとう!」「おかげで楽しかったよ」なんて言ってもらえたりすし、
「さすがは○○さん!」と称賛されたりする。
職場で、他の人が気づかないことにいち早く気づくので、頼まれていなくても、つい仕事を人より多くこなしてしまう。
なんなら、他の人が遅れている分も、手伝ってあげたりしちゃう。
だから、みんなからも「助かったよ」とか「ありがとう」と感謝され、「○○さんがいないとうちの部署は回らないよ」なんて言われたりする。
感謝されたり、評価されたりと自分にとっても良いことがあるし、信頼されたりもします。
だから、つい更に頑張っちゃったりするのですが、これずっと続けていると、やがて燃え尽きることになってしまいます。
初めはご機嫌で、やってあげていたことも、だんだんと「どうして私ばかりやらなきゃいけないの」と言う不満になったり、「私だってしんどいのよ」と思うようになったりしてきます。
とは言っても、そもそも誰かを喜ばせてあげよう、誰かを助けてあげようという人ですから、そんな不平不満や怒りは、顔には出さずに、我慢するんです。
顔に出さないので、周りも全く気づかない。
そうなってくると、「人と関わると、しんどくなる」と、人と関わることを避けるようになったり、そもそも自分が楽しくて始めた飲み会であっても、ちっとも楽しめなくて疲れるだけになってしまって、「もう全ての行事ごとをボイコットしてやる!」なんてことになったりもしてしまいます。
そうならないためにも、犠牲ではなく与えるということができると良いのですが、犠牲と与えるということの区別って難しいのです。
何せ、やっていることは同じですからね。
犠牲というのは、「しんどくなると分かっていても、ついやってしまう」とか「断ると、人から評価されなくなってしまうんじゃないかと思って、断れない」というように、そのことを止めることができないでいる状態でもあります。
体調が悪いとか、あんまりやりたくないなんてときに、誰かにお願いしたり、断ったりできれば、犠牲しなくてよくなります。
与えるというのは、自分が気分よくそのことをやれる状態です。
自分が企画した飲み会で、自分も楽しく気分よくいられるときは、楽しい時間を飲み会参加者に与えたってことになります。
今日は、体調が悪いからとか、自分がどうしても優先したいことがあるから、「今日はできません」なんて言えるのが、犠牲ではなく与える姿勢ができているときなんです。
ものすごく大雑把位にいうと、気分よくできるのが与えるということ、気分よくいられないのが犠牲ということです。
慢性的に犠牲している人は、人に与えられる才能を持っている人なのです。
ただ自分の都合が悪い状態でも、断れなくなっているだけなのです。
簡単ですけれど、参考になりましたら幸いです!
ありがとうございました。
(完)