子育てしていると、子どもの頃の自分を、親目線で見ることになったりします。例えば、子どもの頃には、とんでもない大変なことだ!どうしよう!と思うことがよくあったなぁとか。でも、親から見たら、別にたいしたことではなかったんだなぁとか。
自分が成長して、立場が変わることで、過去の出来事も、違う目線で見ることができたりします。
今日は、ふと思い出した14才の頃の私と、母とのエピソードについて、書いてみようと思います。
真面目で一生懸命
私の母は、当時珍しかったワーキングママでした。フルタイムで仕事をしていて、私は、同居していたおばあちゃん子だったんです。
仕事に行っている間、4才下の妹と、お利口にしていたら、褒めてもらえる。そんな幼少期でした。
学校に行くようになってからも、生真面目で、何でも一生懸命な子だったと思います。母からは、勉強しなさいと言われたことがありませんでしたが、それは、私が進んで勉強していたからです。
宿題をやらないとか、絶対なかったし、サボるとかも、できない子でした。
今思えば、母の言う「お利口」という枠から、なかなか出られなかったんだと思います。母の期待を感じて、一生懸命応えようとしていたのでしょう。
母は、天敵
しかしながら、中学生になってくると、だんだんと母に腹が立つようになってきました。反抗期というやつです。
母は、いつも正しいことを言ってきましたし、母の良いとするものを、私に押し付けてくるような気がしました。
今思えば、大人の視点として、正しいことを言っていたなとは思うし、押し付けていたわけでもなく、母が良しとするものが、私の好みでなかったというだけのことだったのですが、当時は、母のことを、すごく大きな存在として、見ていました。
その母の言うことは、絶対イヤだけど、絶対的な圧があって、その場で喧嘩になっても、結局、母の言い分が、私を動かす指針になったりして、まさに、天敵のような存在でした。
目の前にいなくても、何処からか、母が見ていたら、怒るだろうか、と言う視点がなかなかなくならないのです。
14才の告白
私は、中学生の頃、剣道部に所属していました。
体育館の倉庫のようなところが部室で、部活の前後に、その小さなスペースで、友だちと話をするのが常でした。
ある日、いつものように、部室のすりガラスになった窓にもたれて、友だちと喋っていると、パリンとすりガラスが割れてしまったのです。
元々、ヒビが入っていて、補強してあったので、窓が枠だけになることはなかったのですが、欠けて、前より風通しが良くなってしまったのは、確かでした。
友だちは、笑って「大丈夫、大丈夫」「元々、割れてたし」と、気にもしていませんでしたが、生真面目な私でしたから、それから、気になって気になって、しかたがありません。
「先生に、叱られるんじゃないか」
「弁償しろと言われるんじゃないか」
「お母さんに、連絡が入るんじゃないか」
1週間だか、2週間だか、忘れましたが、悩みに悩んだ私は、叱られるのを覚悟して、母に全てを打ち明けることにしました。
最後の味方
塾の帰り、母の自転車の後ろに乗せてもらっている時に、私は、部室のすりガラスのことを話しました。「わざとじゃなかった」と言った途端、涙が出てきました。
小柄な母は、自分より大きく育って、自転車の後ろで泣いている娘を乗せ、ヨロヨロとバランスを取りながら、こう言いました。
「弁償すればいいんでしょう。お母さんが払ってあげるから、もう心配しなくていい。」
叱られると思っていた私は、ほっとして、また泣きました。
「お母さん、いつもお金ないって言ってるのにあるんだ」って思いながら。
よく考えたら、1週間も2週間も、学校から何にも言ってこないのに、弁償も何もないでしょうし、夫婦共働きで、すりガラス一枚くらい、支払えないわけもない。ふだん、真面目な私が、わざと割ったとは誰も思わないだろう、と思うと、悩む必要なんてなかったのに、14才の私にとっては大事件で、この世の終わりかと思うほど、思い詰めていたのでした。
母の言葉は、今も私の耳に残っていて、「お母さんは、私の味方だ」と、心に刻まれています。
天敵だったけど、一番の味方でもあったのです。
いつも、子どもの味方でいてあげることは、もちろん大切かもしれないけど、子どものピンチに、助け舟が出せたら、毎日喧嘩してても、別に大丈夫なんじゃない?って思える思い出です。
子どもは、母親に味方でいて欲しいし、母親は、子どもの味方でいたいものです。
それがもし、うまくいっていなくても、そうありたいと願う思いを忘れないでいましょう。
それが、母の愛ですからね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
お役に立つことがあれば、嬉しいです。
来週金曜日は、いしだちさカウンセラーがお送りします。
どうぞお楽しみに。