男心(おとこごころ)を伝える〜ハラをわって話す〜

みなさん、こんにちは。向井康浩です。ごきげんいかがでしょうか?
この記事は、四月末から五月上旬の月がわりにかけて書いてます。
連休中には、亡父の十三回忌を予定してます。メルマガで配信される頃には、
滞りなく終わってることでしょう。


亡くなってからの供養「○回忌」は、亡くなった年も含める「数(かぞ)え」
で計算します。
六年・十二年たつと、各々七回忌・十三回忌と言う風に。
父が亡くなったのは、十二年前の一九九三(平成五)年五月十二日でした。
えっ?命日からずらして、十三回忌をすますのはなぜ?
まあ、いろんな人が集まりやすい週末とか、連休中の近い日に行うのが、今日
の都市部の冠婚葬祭としては、一般化してるのもあって。
親族・縁者・知人の方に、没後供養で何度も足を運んでもらうのは大変だから
なくなってから七日目の供養「初七日」は、告別式と同じ日に。
これも、珍しくなくなりました。まあ「四十九日」は、そうもいきませんでし
たが。
供養を重ねるたびに、訪れる方が少なくなったり、御高齢になられたりして、
それが、過ぎ去った月日の長さを象徴するようにも思えるのです。
関西の某・百万人以上の方が暮らす自治体の職員として、そこそこまでの地位
まで行った亡父。
大正十四(一九二五)年生まれで、昭和の年号と、年齢が同じの男性でした。
(一九二六・大正十五年は、途中で改元、昭和元年になりました。)
口数少なく、寡黙な人でしたが、職場では勤勉な男性だったと聞きました。
規則・ルールを守り、職務に忠実で。
夏休みには、日曜日が来るたびにプールに連れて行ってもらったりとか
当時の子供のあこがれだった、プロ野球のナイターに出かけたものでした。
大人の男性として、男親として、やってもらった事はいっぱいあったはず。
なのに、どうして欠乏感を抱えたまま来たんだろう?って。
感情表現を表に出さないのが、男性としての美徳のように言われた頃もありま
した。父は、そんな男性の一人だったように思います。
しかし、自分の身の上話を、自分からしてくれないくらい、しゃべらない人で
した。
父の年代は、戦争を経験し、軍隊に行ったこともあります。
平和な時代しか知らない僕たちには、両親たちが体験した苦労話を聞いても、
何もわからないことが多かったです。
しかし、今にして思うと「ハラをわって話す」たとえがあるように、父は自分
の本音や、信念、生き様、意見や考えを言ったことがない人でした。
知らず知らず、思ってたんですね。
「この人、何を考えてるか、わからない。」
「父の役割だけやって、自己満足してる人にしか見えないや。」
「何考えてるかわからないから、人や物やお金を自分の都合のいいように使お
うとするかもしれない。コントロールして操ろうとするかもしれない。」
「得体の知れん、訳わからん、こわいヤツや、、、。」
僕にとって、父に対して抱えたわだかまり、それは
「お父さんが、ハラをわって話してくれたことがない。男同士の語らいをした
ことがない。だから、父親に愛されたって実感がわかない。」でした。
僕は、父のお通夜や告別式で、全然泣きませんでした。なぜ「あ!おらんよう
になった。」くらいにしか感じなかったんだろう?
その理由が、ようやくわかったのです。
「男として生きていく、お手本を示してくれなかった。生き様を見せてくれな
かった。」憤りを知らず知らず抱えてた、って。
父も、若い時に自身の男親をなくしましたので、もしかすると、、、父も何も
受け継いでなかったのかもしれませんね。
その点は、理解してあげたいところですが、、、。
単身者の僕が言うのもなんですが、男性の親御さんが御家族の方、特に子供さ
んに与える影響力って、大きいんですよね。
自分の体験から出た、信念や生き様を伝えていく。これを「男心(おとこごこ
ろ)」と言うならば
男性のあなたが、愛する人たちに一番伝えたい「男心」は何ですか?
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