遠い春〜〜一枚の写真から〜〜

 目の前に一枚の写真がある。雪の積もるレンガの壁の前で、真っ赤なコートを着た若い私が雪を踏みしめている。遠景でも分かるくらいに、笑った顔でうつむいて、雪を踏んでいる。
 同じような写真が、ある家にはきっと有るだろう。被写体は、今は亡き親友、N子。一つ違いの私たちは仲が良いと言うより、解りあっていたのだろう、頻繁に連絡を取ることはそうなかったが、何かの時には一緒にいた。この写真は、2人で思いついて、気ままな北海道旅行をした時のものだ。何しろ、ちょうどこの季節、3月の半ば過ぎに宿も決めず、船で「北海道に上陸する」ことが一番の目的、と言う、今思うと非常に無謀な旅だった。まず、新潟からフェリーに乗る、と決めたまでは良かったが、新潟に向かう最終列車に乗り遅れ、結局新潟までも夜行列車を使う事になった。


案外神経質な2人はほとんど眠らないまま、早朝に新潟に着いた。しかし、あまりにも早過ぎて、店どころか荷物を預けるにも場所さえ無かった記憶がある。街が動き初めて私たちはフェリーの切符を買った。二等客室は仕切りのない部屋で、長距離トラックの運転手がほとんどだった。私たちの部屋は、呼び名は忘れたが、二段ベッドが何台かある部屋で、他の家族が居たが、私たちにスペースを譲って同行者がいるのだろう、他の部屋へと向かって行った。広い部屋に2人きりになった。揺れる船内のお風呂に一緒に入ったことを覚えている。床をシャンプーが転がっていた。落ち着いてから寒風吹きすさぶ日本海を航って行くフェリーの甲板に、缶ビールを持って二人で出た。船は本州に添ってほぼ平行に北へ向かっていく。神戸に住む私たちにとって、見慣れない深い色の海と、真っ白な山脈が続いているのを遠く見ながら、言葉もなく並んで座っていた。
 小樽に着き、まずは宿探しに出かけた。この季節、スキー場でもないこの街の民宿はほとんど開いていない。今のご時勢ならビジネスホテルがあるのだろうが、当時はそんなものはなかった。観光するにも、何も決めていない行き当たりばったりな私たちは、有名な倉庫街へ。運河や市場や、有名なガラス工房へ気の向くままに向かった。何の目的もないはずの旅だったが、誰かと一緒にいる時間の大切さを感じることが今でも感慨となっている。この後、何も考えて居ない私たちは小樽に一泊した後、札幌に向かい、札幌から稚内に発つ。札幌はあまり関心がなかったが、何となく歩いていると北大にたどり着いてしまった。有名な時計台やポプラ並木は見ない予定だったのに、うっかりそんなところにたどり着き、呆然としている私たちに、北大の職員であろう「オジサン」が声をかけてくれた。
 「観光かい?どう、寄ってきな、コーヒーでも淹れてやるよ。」
 「はぁ・・・」
 目と目を交わし「どないする?」「行ってみよか?」「そやな」・・・
とオジサンについていく。今思うと、大学の保守管理の方だったのだろう、3〜4人がだるまストーブを囲んでお茶の時間のようだった。
 「お邪魔します」
 小さくなりながら部屋にはいると温かいコーヒーを淹れてくれた。さすがに寒さに慣れていない私たちには、生きた心地のする瞬間だった。
 「どこから来たんね?」
 「神戸です。」
 「それはまた遠いところから。これからどっちへ行くんだい?」
 「礼文島に行きたいな、と思っているんですけどまだ決めていません。」
 「オジサンは、摩周湖を勧めるよ。摩周湖は本当にきれいな湖なんだが、オジサンの昔の恋人が沈んでいるんさ・・・、きれいなきれいな骸骨になっとるよ。」
 オジサンは私たちに断わり無く、思い出話を始めた。摩周湖がどれほど美しいか、彼女はその湖にも増してどれほど美しかったか。情景を語りだすと、周りの同僚たちは口をつぐんだ。話が終わる頃、私たちはコーヒーを飲み終えて、暇を告げて外に出た。N子はぽつりとこう言った。
 「眉唾の恋愛話やな。私らみたいな観光客にサービスをしてるんやろね。」
と、淡々と話していた。そうか、そうやんな、いくらなんでも。ちょっと信じた自分が、何だか恥ずかしかった。
 「写真撮ろうか。」
 たぶん、声をかけたのは私だった。交代で、1人ずつ、写った。そして、駅へ向かい、稚内行きの夜行に乗り込む事になるのだが、5泊のうち畳の上で寝たのは、小樽と稚内の民宿だけで、あとは船中泊、車中泊。今なら到底身体が持たないだろう。若さゆえの暴挙、とも言えると思う。この、札幌か
ら稚内に向かう夜行の景色がまたすばらしかった!雪原を列車が走っていく。
雪、雪、雪しかない。地面にも空中にも、雪しかないのは2人とも生まれて初めての体験だった。声も無く顔を寄せて、窓越しの景色を飽きもせず眺めていた。今も、あの景色とN子は一緒に私の中にある。行く先が決まっているのに見えない、そんな時にいつも浮かぶ景色のようだ。
 N子はその後看護師となり、病院勤務をする。そして私は学校の事務職員に。道を違え、時折思い出したようにはがきが届いたり、電話をかけたり、の距離だった。共通の友人の結婚式に一緒に出かけたのを覚えているが、もしかしたら逢ったのはそれが最後だったのかもしれない。二つ目の病院で主
任になったとき、N子は体調を崩した。そう、ちょうど今の季節、彼女は仕事を休んだ。私は、その頃、離婚を決意し転居したころ。N子に電話をかけたのは誕生日の近い私たちの誕生月の6月末だった。
 「誕生日おめでとう。N子体調はどうなん?」
 「あんまり芳しくないわ。ストレスやと思っていたけど、違うみたい。」
 「そう・・・私も家を出てん。」
 「そっか。まあ、無理ばっかりしてもあかんで。それより、遊びに来て
よ!」
 「うん、行きたい!でもちょっと今は忙しいかな。夏休みになったら時間が作れるかな。」
 「夏休み・・・。そう言わんと着て欲しいな。」
 珍しく、N子がそんな風に言った。そうやね、と言いながら、夏が来た。
 N子に連絡をしなければ、と思いながら何故か気が進まないと言うか、気分が重かったが、8月も終わりに近い有る日・・・共通の友人T子から電話があった。
 「N子、亡くなったの知ってる?」
 声も出なかった。逢えないままに彼女が逝ってしまっていたなんて、信じるとか信じないとかの問題ではなかった。T子はN子と看護学校の同級生で、私たちはボランティアのサークルで親しくしていたが、進路が違った私には連絡が来ていなかった。言葉もない私にT子はこう続けた。
 「悪性のリンパ腫やってん。私のところに、自分の病状と、今受けている治療、今後の自分の容態についての推測と治療、自分がどうなっていくかについて詳しく書いた手紙が来てたの。あなたにも逢いたがっていたわよ。ねえ、四十九日に一緒に行こう!」
 N子にもう一度逢いたかった。どんなに弱っていても、逢いたかった。でももしかしたら彼女はどこかで、そんな姿を私に見せたくなかったのかも知れない、とも思った。T子とN子の四十九日に行く事にした。
 
 ご両親とは初対面だったが、T子がN子とは本当に心が通っていた友人だった、と紹介してくれた。フレームの仲のN子は(彼女は750に乗っていた)ライダースーツでにこやかに立っていた。これが一番この子らしい写真だったので、とご両親。親戚より看護学校の同級生で部屋は一杯だった。看護学校以外の友人は、私一人だった。T子は焼香の際にちょっとした失敗をしてしまい、N子に笑われた〜と泣き笑いをしながら席に戻ってきた。そんな風に思い出話に泣いたり笑ったりしている私たちを見ている青年がいた。
N子の恋人、O君だとすぐにわかった。彼は、N子から私のことを聞いていたのかもしれない、軽く会釈をして、泣いたり笑ったりしながらN子の思い出を話す私たちを、穏やかに見守っていた。
 
 毎年、この季節になると必ずN子を思い出す。私の家には彼女が750にまたがる絵葉書になった写真が置いてある。にっこり笑って、親指を立てている、N子がそこにいる。私が困ったとき、迷ったとき、この笑顔で遠くからいつも励ましてくれていることをいつも感じている。
 
 あれからもう、8年。生きていたら彼女も44歳。O君と結婚して、子供もいたかもしれない。バリバリの看護師になっていたかもしれない。私がこの仕事をする上で、お互い助け合えたかもなぁ、とも思う。私の周りに医療従事者が多いのは、彼女が私に送り込んでくれた宝物なのかもしれない。彼女が亡くなる前に見せてくれた医療従事者魂、とも言える姿勢を私は私なりに伝えていきたいと思っている。
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