精神病をもつ家族との関わりについて

《序》
‘統合失調症’という病気、名前はご存知の方は多いかと思います。
今回は自分自身、勇気の要ることですがこの‘統合失調症’の診断名をもつ姉との関わりについて書いてみたいと思います。
このことを表現できるようになるまで、姉の発症から実は十数年がかかってい
ます。
その理由も含めて、理解を得られたら、今、もし本当に困っていらっしゃる家
族の方、同胞の方の勇気に少しでもなれば・・・という願いもあります。
読んで頂ければ幸いです。


《発症》
「マリア様が見えたの。」
姉の言葉を心配そうに伝える母。
当時私は自宅から大学に通っていました。
姉は中学、高校時代を通じて公立ではありましたが、常に学力の面では優秀で
クラスや学年で一桁であったと記憶しています。
友人に対する思いやりも深く中学時代には登校拒否になったお友だちを根気強
く迎えにいく、そんな一面もありました。
そんな姉でしたが成績が悪くないのにも関わらず大学受験は、ことごとく志望
に落ち続けて最終的に家から遠い新設の薬学部に通うことになりました。
このときどちらかというと薬学部にいけ、という父の強硬な態度と、娘の進路
をどうしていいのかわからない自信のない母に対して「受かったんだったら行
けばいいんじゃない?」と決断を促すように話をしたのは私自身です。
今振り返ると、実際に彼女が本当に行きたくてここを選んだのか親の期待に応
えたかったのかは、父との進学でのやりとりを聞くにつけ、期待に応えない
‘悪い子’になれなかったんだなぁと今は感じます。
この辺りから母の心配事は、金銭面とともに姉の不安定な精神状態一色となっ
ていきました。
留年が非常に多い大学・・・という噂は同じ学部を選んだ私にはよく届いてい
ましたが通学困難のため一人暮らしを始めた姉が以前は優秀であったはず・・
・という思い込みもあって何度も何度も同じ学年を繰り返し、変わった行動が
増えていく姉のことを私も含めて家族全員が理解できずに困り始めたのがこの
頃です。
実際、私自身の姉妹間の競争心というものが存在していて、なんとなく‘うま
くいっていない姉’に近づきにくくなっていました。
睡眠をとっていない様子、感情的になって母にあたるようす、時々独り言を言
っているような様子、トモダチになにか盗まれたという疑念、そして狭い部屋
にも関わらず掃除が出来なくなってきた様子、衣服を変えなくなってきた様子
、逐一聞いていて、
母の「一度呼び戻したほうがいいのか?」という不安に「そうするべきだよ」と決断を促したのも私自身でした。
読んでくださっている方は既にお気づきかと思いますが、常に『姉の意向』が
反映されていないんですよね。
このことがその後の私の精神状態を決定する事になります。
実家に戻った姉の態度は、幼少の頃の記憶にある『優しくて明るくて頭がよく
てちょっと不器用だけどカワイイ大好きなお姉ちゃん』とは随分と変化してし
まっていました。
実家にあった‘離れ’(実は祖父や祖父の奥さんや父の兄弟たちがまだ一緒に
住んでいた頃父母が住んでいた二間の家)にひきこもりがちになっていく姉。
時々、母を責めたり突然家を飛び出して数時間歩き回り帰ってくるようになり
ました。
‘おかしい’事は分かるのだけど打つ手がない父と母が同時にそこに居ました。
《出会いと受容》
おかしい、おかしい。
言葉がどんどん通じなくなってくる感覚を感じながらずっと過ごしていたよう
に思います。
私自身が卒業間近になった当時大学で外部の講師の方による『医学概論』とい
う授業を受けることになりました。
そこで取り扱った内容は「精神病について」でした。
文献上であったとしても始めて接する「精神病」の世界。
幻聴・幻覚・妄想・行動レベルでの変化、欝的な傾向、そしてその時点での治
療。
100人にひとりはかかる『こころの病気』なのだ、という認識。
姉には見えている‘神様’や‘マリア様’を‘ありえない’と思い込み、見え
ないものが見えること自体が努力や考え方でまだ変えられるはずだと思ってい
た私にとっては初めて納得のいく情報を得られた気がしました。
「精神病」という響きにもともと悲嘆にくれやすい母はどう思うのか、古い風
土のしがらみで本人自身が苦しみ‘家の恥’と感じやすい父はどう捉えるのか
賭けでしたが両親と話をすることを決めました。
母はやはり母親としてより姉に近い場所にいたということもあり、『病気であ
る』ということをまずは受け入れてくれました。
父はやはり始めは「そんなことあるわけない・・・」。病院に行くことも賛成
できない様子です。このとき実は私が感じていたのは「父のせいだ」という、
父を攻撃する気持ちでした。あなたのせいでこんなことになったのに・・・、
なぜ理解しようとしないのか、なぜ動こうとしないのか、そんな憤りでした。
実はこの憤り自体が姉の病気を『使った』私自身の父との葛藤であることに気
づいて受け入れることが出来るようになったのはずっと後の時点です。
父のこのときの誰よりも自分を責め、認められない苦しさを孤独のうちに抱え
ている事に気づけたのももっともっと後の時点でした。
実はもうひとつ私の心に不安な要素として占めていたことを告白するとすれば
、「遺伝的なものかどうか解明できていない」という表現を見たときの私の気
持ちです。
彼女の変化に自分自身を重ね合わせ、私自身が‘壊れてしまうのではないか’
という恐怖、遺伝的なものであれば自分の将来も暗闇であるという恐怖がそこ
にはありました。
この後私の心には「神様などいないじゃないか・・・」という絶望的な思いと
常に共生することとなります。
そこかしこにある、助けに気づけなくなります。
実はこのときにも、今となっては私と私の家族にとって本当に救いとなった、
という出会いもありました。いつも成績がすれすれで担任の教授には時々呼び
出されて‘勉強しなさいよ’とお説教されていた私。多くの友人はその担任の
先生を「怖い」と評していましたが、丁寧な関わりにどこか信頼をおいていた
のでしょうね、家族のことなのですが担任の教授に相談することにしました。
怒られるときくらいしか寄り付かない教授室を尋ね、副担任の方へ話を通した
ところ、以外にもすぐにお話を聞いてくださる時間を頂ました。
口をいつも「へ」の字にされ、授業中や学生への指導中にはきっぱりとモノを
言われる彼女が話を聞き終えて口に出された言葉がありました。聞いたことが
ないようなゆっくりとした優しい声でした。
「私ね、担任している学生のひとりが死んじゃったことがあるの。」
学業で悩んでいる生徒を助けられずに自死された経験を淡々とお話くださいま
した。最後には私の医者の友達がいるから・・・と精神病院を紹介してくださ
りいつでも相談に来なさいと付け加えてくださいました。決して泣かれません
でした。でも彼女を包んでいる周囲の空気は深い悲しみと思いで包まれていた
ように今も思い出します。
教授や学校の先生など、学業を教えるために存在しているんでしょ?・・・そ
んな想いを払拭するには充分な愛がありました。そのときは気づけなかったけ
れど・・・。
そして私は就職を機に、両親を残し、姉を残し、実家を出ることとなります。
全国展開をしている会社の人事には、さすがにこのことは言えずそして、実家
に居たいのか外へ出たいのかの希望も述べず「全国どこでも行きます」とだけ
伝えました。
80数人居る同期入社の仲間のうち、女性社員は15名前後。うち数名だけが自宅
を離れての勤務となり私もそこに入っていました。
配属先が一人ひとり発表になる場所で、‘愛知県名古屋市担当’の言葉を聞き
、そして友人の女性社員が私の実家近くを担当すると聞きはっきりと私の心は
私を非難しました。
「逃げた。」と。
その晩は泣きながら母に電話を入れました。
ごめんなさい・・・と。実はその罪悪感自体が、うちの家庭のマインドのひと
つのパターンでありワナだとはまだ気づいていません。
いわゆる‘病識がない’状態であった姉は受診を拒否し、拒否するために暴れ
、引きこもり続けました。
そのことを名古屋で聞くにつけ、私にせめて妹である私には自由であって欲し
いという親の愛とは感じられず
「私がワガママだったから、私が姉を嫌ったからきっとこんなことになったん
だ。母に相談されたときに答えたのは私だ。私は罪深い。そんな私は幸せにな
る価値はないんだ」と自戒し続けました。
よほど姉のことを助けたかったのでしょう、罪悪感が深かったのでしょう、
「私は一人の人生を潰したんだ」とまで発展してしまいました。
ですがこの時点で私の中の構図として
「姉を潰しちゃったのは私」と自分を責めていますから、姉は私を怒っている
に違いない、許してくれないに違いないという思いに嵌まってしまっています

私の失敗感よりも、姉の失敗感や罪悪感のほうが深いからこそ、今こういう状
況があるとはとても思えずに居ました。
実は私も私以外の家族全員も‘罪悪感’‘失敗感’の痛みと絶望の中にある・
・・とは思えなかったことを今は理解できますが。
この時点であっても母は果敢であったように思います。
まだ『臨床心理士』という資格を全国で十数名の方しか取得していない・・・
そんな時代でした。母は私の名古屋の住まいのほんの近所に、臨床心理士の方
が開業されていることを新聞で知ったのです。
姉は一進一退を繰り返しつつも病院は拒否していたので、母が受診し水のお薬
を頂きなんとか怒りが爆発するのを抑えているような状態でした。その中で『
家族療法』というものがあることを知り、どのように関わったらよいのか指示
を受け介入することとなりました。
《帰阪、そして心理学》
自分自身がこの時期には、かなり弱い状態にありました。
神経症的な症状も日々強くなっていました。
ただ、‘治らない’が信じられない、どこかに道があるんじゃないか・・・こ
の思いだけは捨てられずにあり、そのときに神戸メンタルサービスで「心理学
」を学ぶことになります。
何よりもここで救われたなと思うのは、自分自身がカウンセリングを受けた時
に「まずはなおみちゃん自身がお姉さんに見ている投影を取り戻すことが大事
だよ。」という言葉とともに「助けたかったんだよね。お姉さんのよい面を覚
え続けているのは家族ではなおみちゃんだけだから、見続けてあげてね。」と
言われたことでした。
助けたい・・・なんておこがましい、その気持ちすら自分で非難していました

お姉ちゃんが昔のお姉ちゃんじゃない、と悲しみに沈んでいました。
誰も彼女を助けてくれない・・・、優しい部分がたくさん残ってるのに・・・
、そんな気持ちを始めて理解してもらえたように感じました。
そして何より救われたのは
「なおみちゃん薬屋さんに勤めてるんだよね、ひとがくすりになるんだよ」
「例えひとりが信じても、はじめは皆に笑われても、信じ続ければ手伝ってく
れる人が必ず現れるよ」
といった言葉でした。
勤めていた会社は、数年後に「精神病の新しいお薬(非定型精神病薬)」の発
売を決めていました。少しの情報ですがもちろんのこと手元に日々届きます。
薬剤の新規開発というのは非常に難しく、予定よりも数年以上遅れることはざ
らでひとたび開発の段階で問題が起これば薬剤自体が発売までこぎつけないこ
とも業界ではよくあること。
社内の中にあり、企業の論理とは違う観点から日々開発の社員への応援もして
いたし、特別な病気のように扱う社員へはとうてい理解してもらえないだろう
怒りを感じることもあり複雑ではありましたが、人一倍、会社に対する思い入
れも情熱も傾けたのは良くも悪くも個人的な背景がありました。
《母の一大事、そして入院》
一度は実家へ戻り、カウンセリングを家族が受けたり私自身がワークショップ
などで回復したりしていく過程で結局のところ再度後ろ髪をひかれながらも私
は家をもう一度出ました。
問題だらけの実家が徐々に落ち着いてきたように見え、姉の事もなんとかなる
かしら・・・と感じていた矢先のことです。母が交通事故で救命救急センター
に運ばれます。
生命の危機にあったようですが、脳に障害が残りリハビリも含めると1年半以
上、彼女は病院で過ごすこととなります。
実家に残されたのは父と、やはり病状の安定しない姉のふたりです。
電話をかけ姉に母が入院したこと、長くかかる可能性があることのふたつを伝
えました。
普段は時々大きな怒りが爆発する以外は、心に響いたような感触がない姉にこ
のことを報告するのはとても勇気がいりました。
パニックになるのか、更に心を閉ざすのか、まったく読めないからです。ただ
、姉の情緒の部分を信頼するしかなかったのですが、このときに久しぶりに「
お母さん、大丈夫やろか?」と情緒のある声を聞き安堵したことを覚えていま
す。
ただ、ずっと母から言われた薬を飲んでいたようで、父とは信頼関係がなく全
く薬を飲まない日々が続きました。母を拠り所としていた姉の不安は当然に高
まり、父への直接的な攻撃もひどくなってきます。
時々は、実家の様子を私であったり親戚であったりがのぞきにいきますが、精
神状態を表すかのように部屋はあれ次第に家自体が荒廃し父の居場所がなくな
るほどになりました。
保健所にも相談に行きましたがそのとき相談員の方が「妄想と幻覚が出ていら
っしゃる状態は本人が本当に苦しいですからね・・・」といってくださいまし
たがこの言葉がなかったら入院するまでもっと時間がかかっていたかもしれま
せん。
自分自身びっくりしたのは、医療関係で働いているにも関わらずそれでも尚、
精神病院への入院というのがこれほど敷居を高く感じていた・・・ということ
でした。
父に対して、姉をなんとか入院をさせてあげたいということで話をし続けまし
た。強制入院という制度は精神保護法が変わり、今はほとんど不可能です。
ただ説得をすることも、話をすることもままならず 人の声がまるで心に届か
なくなってしまった姉に対して、入院することでちゃんとした治療を受けるこ
と、安全な状態を確保すること、まずはこの状態を作り上げるため父の決断が
必要でした。
自分の娘を精神病院に入院させる、60代の彼にはかなりの勇気が必要だったと
思います。
ただ、近所の方から夜中に眠れなくて徘徊したり突然大音量でCDのボリューム
をあげるなどの行動によって脅しの電話がかかってくることもあり、決断して
くれました。
病院と話をつけ、また、彼女自身も家族も身体的に危険が及ばないようにとの
配慮で警察の方も動いてくださることとなりました。
どこか心に届いていてくれるだろう、そう祈りながら「お姉ちゃん、皆敵やな
いねん、よくなって欲しいからいくねんで」泣きながら暴れる姉を抱きしめ続
けました。
民間の救急車に待機していただき、数人でなんとか姉を車まで運び、救急車の
中ではストレッチャーに縛れたような状態の姉と父が病院まで向かいました。
全く誰にも心を開かない状態であった姉ですが、救急車に乗って初めて一筋の
涙を流したのを父が見ていたようです。
彼女の一筋の涙は、このように手荒なことをした事に迷いがあった私たちへの
許しのように感じました。
数日間は面会は出来ませんでしたが、やはり、‘安全な環境’とお薬と手厚い
看護が彼女の心を溶かしてくれたのでしょう、数週間過ぎる辺りには落ち着き
を取り戻し病院内の様子を教えてくれるまでに回復しました。
その後数ヶ月、お見舞いごとの外出に付き合います。
一度目は歯医者。十数年彼女は自分を手入れする、という事をしていなかった
彼女の歯は相当痛んでいたようです。
二度目は、ふたりで外食を計画してみました。精神病院に入院している患者、
人格は随分と戻りましたが見た目にはやはり少しおかしく見えるように感じて
しまいます。私の「信頼」というものを学んだ原点はこのとき姉が教えてくれ
たように思います。
とても怖かったんです、私自身も人の目、というものが。
ですが、勇気をだして姉とともに外出したときに、世間はとても優しく静かに
受け入れてくれました。
その後、母が退院し状況が整うまでの数ヶ月姉と暮らすこととなります。
姉の笑顔を再び見ることが出来たのは、彼女との暮らしの中 友人との協力も
あいまってでした。
何年も苦しみ続けた彼女に、「身体を大切にする感覚」を取り戻してくれたの
は友人のマッサージだったと思います。
彼女の自己嫌悪をそのまま体に表現していたのでしょう、彼女はゆっくりとお
風呂に入ることすら自分に長年許してこなかったようです。始めはさわっても
怒らないかなと気にしつつも彼女の身体にさわります。そして涙ぐむ姉を見ま
す。ああ、よかったんだな。。。
この頃の姉と私のチャレンジとしては神戸メンタルサービスの主催するワーク
ショップに参加する・・・ということでした。
縁なのでしょうね、私にはあまり理解できない彼女の楽しみを共有してくれる
友がいました。同じ本を読んで面白いと感じてくれる人がいました。
全く、病気というものを手放して彼女が今生きているのか、というといまだそ
うではありません。
精神病院入院から、外来へ、そして社会復帰する、このプロセスがまだうまく
機能していないこともありますし、十数年の時間を、幻覚であったり苦しみと
いう堅くて強固な壁の中で傷ついた自分自身を守ることで過ごしてきた彼女に
とって まるで夢から醒めた後、どう生きていったらいいのか途方にくれてし
まうのも当然かもしれません。
見守り続けること、変化する社会を信頼し続けることが私たち家族の課題なの
かもしれません。
《社会の中で》
昨年「ブラックジャックに宜しく」という漫画で統合失調症が取り上げられて
いました。読み終わり、姉と関わった時間を思い出し涙することもありました

作者の方の「精神病の世界」の描写が美しくて悲しくて正確で、驚きました。
本中、新聞記者の方が社会の常識と対峙するという側面もありました。
実際、心待ちにしていた薬剤が発売当初に、ある副作用が何件か報告され、緊
急安全性情報という医療機関への注意喚起がなされたとき、新聞社は「精神分
裂病の薬に副作用」という大きな見出しで報道しました。
必要な報道ではあり、必要な情報提供ではありました。
が、お医者様の中には病状のこともあり繊細に扱っている時点であるのにも関
わらず病名を見出しにし薬剤名をはっきりと書いたことに対して患者さんの反
応を考えていないという憤りの声を顕にされる方もいらっしゃったことも事実
です。
《結》
私自身、姉や自分自身の精神状態と付き合い続けることで、たくさんの学びが
ありました。その中でやはり感じること、今回お伝えしたいことは、色んな状
況があるかとは思いますが‘恥’をしのんだとしても苦しみを表現する場所は
誰であれ必要だと思っています。
話をすることで気づく、癒されるということが必要なことっはたくさんあって
、誰一人として孤独の中に孤立の中に入ってしまわれないで欲しいという願い
です。
孤独の中では、自分を責めたり傷つける思いしか出てこないですから・・・。
姉の発症から、このコラムを書けるようになる今日まで、光を見させ続けてく
れた人や存在、受け入れてくれた人や存在に感謝をこめて。
上西直美のプロフィールへ>>>

この記事を書いたカウンセラー

About Author

退会しました。