小学生の頃、跳び箱の授業がありました。
皆さんも同じようにその経験をされているのではないでしょうか。
さて、みなさんは跳び箱を跳ぶ時、怖くなかったでしょうか?
僕は結構体を動かすのが好きで、運動は概ね得意としていたのですが、飛べる
段から1段積み上げて、今まで跳んだ事のない新しい段数の跳び箱を跳ぶ時の
緊張感を最近思い出しています。
自分が跳ぶ順番が来ると、跳び箱を見つめながら精神集中します。しかし、
「跳べるだろうか?」「失敗したら痛いだろうなぁ」「怪我しないかなぁ?」
「失敗したら格好悪いなぁ」そんな気持ちが浮かび上がってきます。でも跳び
たい。思い直して気持ちを落ち着かせ、助走します。加速しながら踏み切り板
の手前で歩数を合わせて「エイヤッ」と跳ぶのですが、時には歩数が合わなく
て踏み切り板の手前で跳び箱をよけたりしました。また時には、ふっと不安が
よぎって集中力が無くなり、跳ぶのを止める事もありました。
そして、跳んではみたものの、何が悪いのか跳び箱の中央でお尻を着くことや、
最悪の場合は、飛び越えた跳び箱の角で尾てい骨を痛打することもありました。
お尻を押さえながら痛くてのたうち回った事を思い出します。
今思えば懐かしい小学生時代のひとコマなのですが、結構勇気があったんだな
ぁと思います。
最近、跳び箱を跳ぶ時の緊張感を思い出すのは、様々なクライアントさんとお
話しをさせていただいての事です。
何か問題にぶつかった時、人は怖れを抱きます。
例えば、好きな人ができて、「先ずは友達になりたい」と思ったとしましょう。
そして自分から相手に近づきたいけど近づけないとします。「近づきたい」と
「近づけない」がぶつかって問題となるのですね。
本当の気持ちは「近づきたい」のですから、どんどん近づけばいいようなもの
なのですが、でもそう簡単にはいきませんね。
「私なんてどうせ相手にされず、断られるんじゃないか?」「相手には既に好
きな人がいるんじゃないの?」そんな不安が頭をよぎります。
どこか、「失敗したら痛いだろうなぁ」「怪我しないかなぁ?」「失敗したら
格好悪いなぁ」という跳び箱を跳ぶ時の不安と似ていませんか?
自分が跳び箱を跳べる自信があれば、こんな気持ちにはなりませんよね。
でも、どこかで自分に跳び箱を跳べる自信が無い時、例えば「力不足」とか
「やった事がない」とか、「前に失敗した」などという気持ちがあるときに不
安になります。
では、跳べなかった段数の跳び箱を跳んだ時、どうして跳べたのでしょうか?
何度も何度も失敗し、でも繰り返して跳ぼうとチャレンジしたのではなかった
でしょうか?泣きながらだったかもしれません。場合によっては放課後に残っ
て練習したかもわかりません。跳べた時には少しだけ先生が手伝ってくれたの
かもわかりません。でも、諦めずにチャレンジしたからこそ、跳べなかった段
数の跳び箱が跳べるようになったのではないでしょうか。
「問題の解決」も、僕は同じように思うのです。
「こうしたい」と決めたら、その信念を曲げずに何度も何度もチャレンジして
みる事だと思うのです。
勿論、パートナーシップや人間関係、仕事の関係などは跳び箱を跳ぶという
「自分だけのこと」とは異なって、そこには「相手のこと」があります。相手
の事情もそこには存在するのですね。だから、「何かがうまくいかない」こと
は必ずしも自分の問題だけとは限りません。そこには相手の意志や気持ちがあ
ったり、場合によっては問題が横たわっていることもあります。相手の事情は
自分の問題ではないのですから自分を出来ていないと責める必要は全くありま
せん。むしろ努力している自分や前を向いている自分を認めてあげること、そ
れが「こうしたい」と思った事に繰り返しチャレンジする原動力であり、また
成功の秘訣ではないかと思います。
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