すっぱい葡萄を甘くするには?〜あきらめていませんか?自分のこと〜

 自分の限界を感じることが多くなりました。体力的には勿論、記憶力も。
歳を重ねるということは、確かに新しいものにチャレンジし得る能力は減る
ものである(中村、断言)。しかし、意欲はそうではないと思ってるんです。
 このところ、付き合う事の多かった年上の友人が、「○○歳なんだから、
そんなに無理しなくても・・・」とか「あなたも若くないんだから、出来る
はずがないわよ。」などと口にするのですよ。私の方はやる気満々だったり
するのにね〜。
 確かに、バイト先で20くらいのオーダーを人を間違えずに出すことがで
きていたハタチくらいの頃の記憶力はもうありません。20人の名前を一度
に覚えるくらい結構楽勝もんだったのが、最近ではそうもいかなくなった。
20人なんてとんでもない話で、あれほど良かった私の記憶力は溶けてなく
なったのか・・・とほほ・・・と嘆いていてもしょうがないんだけど。


 脳の仕組み的にいえば、二十歳を過ぎだすと、使わない脳細胞はどんどん
死滅していくのだそう。なので、若いうちにいろんなことにチャレンジして
いるのは脳のためには良いことだろうと思います。ただ、そのことが即、出
来る人・素晴らしい人に直結するかと言うと、経験的にそれも違うと思うん
ですが、これはまた違った機会の話に。
 その意味で、受験のための勉強も貴重だろうと思います。私はかつて、ろ
くに勉強しなかったんだけど、確かに昔したことは覚えていたりします。三
つ子の魂百まで・・・。かといって新しい事の全てが苦手になるか、と言う
とこれが案外そうでもなかったりするんですけどね。
 それは今までしてきた事を頭の中で組み替えたり、つなげたりする能力は
衰えないどころか、経験値を味方にするからだと言います。この意味でも、
やはり若い間に色んなことにチャレンジする事は、良いことなんだな、と思
います。要は、フォーマットが出来ているところに、新しいデータを入れた
り、昔のデータを加工したり、と言う作業のような感じでしょうか。
 例えば、楽器。ピアノを弾こうと思うと、こどもの頃に習っていた私は楽譜
も読めるし、奏で方を知っているので、練習すればある程度弾けるかな・・・
と自分に淡い期待をかけてみる。確かに、昔弾けた曲は、ちょっと練習する
と戻ってくる・・・このコラムの為に実験したのだ・・・と言うのは嘘です
けど。
 でも自分にとり新しい曲は(私は特に耳で覚えてしまうタイプなので)、
譜面を追うよりも耳からの刺戟を頼りに、私の脳は、指へと指令を出すらし
い。
 そう言えば、こどもの頃は聞き覚えのある曲に、適当に伴奏をつけて弾いた
り、少女時代にはギターコードを頼りに好きな歌を「曲」にしていた・・・。
と言うとたいそうだけど。ところが、自分では弾いているフレーズを譜面に
書くとなると、とんと難しくなる。特に細かい譜割ができない。私が書いた
譜面は、私の弾いている音に全く忠実ではないんです。そのまんま弾くと、
何ともぺたんとした、平面的なものになってしまうんですよね。そういうこ
とは、変わればいいのに変わらない。衰えはするけれどね。まさに、ハード
の部分ですね。
 もちろん、体力も気力も不十分な今、そんなことにチャレンジしようとは
思わず、聴いて満足できるから良いんですけど。そして、自分の愛する音楽
を、とんな風に生活に活かすかを考えたりするのが幸せだったりします。最
近ではCMやドラマに、馴染んだ曲がよく流れていて、すごく嬉しい気分。
クリエータが同世代なのかもしれないですね。
 最近はキムタクが出ている整髪量のCMにいつも手が止まってしまうので
す。初めてみた(聞いた)ときは息子に呆れられたが、叫んでしまった。
 「おおっ!これはっ!!」
 スタイリスティックスの「愛がすべて」・・・ベタな邦題ではあるが、あの
ファルセットが聴きたくて、勉強をしているふりなどをして深夜放送ばかり
聴いたものだ・・・をアレンジしたもの。あと、「愛のコリーダ」とかね。
もちろんCD持ってます(^^♪ そう、昔聴いていた曲はスーパーイントロで
今でもわかるんですよね。
 この時代の音楽について書き出すと止まらないので、今回は止めておくけ
れど、良いものはいつになっても変わらないな、とつくづく思います。
 反対に、最近良さのわからない音楽も増えたとも思うんです。歳のせい、
私の脳はとっくの昔に成長を止めているのでしょうね、残念ながら・・・。
でも、新しい音楽の中に、心に響くものもやっぱりたくさんあって、音楽そ
のものより、感受する能力の西南だろうなぁ。だって、世代を超えて、時代
を越えて、愛され続けている音楽はもっと多いですもの。クラシックは言う
に及ばず、ジャズ、ラテン、ポップス、フォークソング、etc.
 音楽に限った事ではないですよね。人の心を動かし続けるものは、絶える
ことがないんだなあ、と。絵画にしろ、文学にしろ、映画にしろ、廃れない
には理由がある筈です。そして感じる心もまたそうなんですね。
 「何故、人は髪型や身につけるものを気にするのだろう・・・」
これは、まだまだ脳が活発であった時代!の私の疑問です。あほぅなことに
こんな事を考えるのに随分時間を割いたものです。その他には、「何故おい
しいものを食べたがるのか」「人を好きになるのか」「きれいな物を見たが
るのか」・・・などなど、脈絡もなく考え続けていたんです。そして、私の
脳はこの分野については、機能が廃れることなく今に至る・・・。はたして
良いのか悪いのか。
 まあ、要するに脳が、身体が、欲していることに理由が欲しかったんだ、
と思います・・・と言うより、ちゃんと知りたかったんだろうな。これは心
の欲求だ、と言うことに、当時の私は気づいていた気がするけど、心は形が
ない。だから何か証拠を欲しかったというのが一番近いのかなぁ。ならば、
例えば脳のことをもっと勉強して、たとえば脳神経の大家になっていても悪
くはないのに、そこが私の私たる所以なんでしょうね。
 あ〜あ。自分が一番解り難い。 何をしたいのか、どう生きたいのか、随
分裏切って生きてきた気もするなぁ・・・。
 でも、私は、「どうせ無理なんだから」と言う生き方はしてこなかったつ
もり。もちろん、いろんな制限もあり、限界も知っているけど、「どうせ」
と言う響きには、自嘲と共に何だか悲しみの匂いを嗅いでいた気がします。
それが嫌だったんだなあ、私は。
 〜〜〜自分の気持ちに忠実に。
 言い古された言葉だけれど、そのうしろから「どうせ無理・・・」と限界
と言う名の悪魔の囁きが聞こえてきた時、自分にとっての真実に蓋をして、
なかったものにしたり、見なかったことにしてきたんじゃないかな。私も。
 食べてみて、すっぱくても良いじゃないですか。すっぱいなりの味わいが
きっとあるはず。そのまま食べるにはすっぱすぎても、ケーキに入れたり、
ワインにしたり、その葡萄にしか作れない味わいが絶対にあるはず。
 私はまだまだすっぱいかも知れない葡萄に飛びつくつもりです。そして、
「ほら、こうしたらこんなに美味しいよ!」
「こんなに綺麗だよ!」
 と発信できる人に、まだまだなっていくつもりです。と書きながら、どこ
かで自分をあきらめていた事に気がつきました。
 まず私から、ですねっ!!がんばります!
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