「生産的な仕事」を生業としていた時代からはや、数年の日々が過ぎようとし
ています。
そして、私も‘ありがたい’事に、40の声が近くに聞こえてくるような歳に
なりました。
カウンセリングやセラピーを主たる生業として、同僚や師匠やクライアントさ
んと接する事のできるこの場所は、私にとっても「自分の居場所」を感じる事
のできる暖かい場所です。
住み慣れた我が家のような、このスペースから少し離れて‘社会の日常’の中
で人様に自分の今の所業(カウンセラー)です、と、自己紹介するときに必ず
おっしゃってくださる事がございます。
『人の悩みを聞き続けるのって大変じゃないですか?』
小学生のころ、れんしゅう帖に書き綴った‘異口同音’という4文字熟語。
そうか。
こういう時に使うのだ・・・。
そう感じるくらい、ことごとくそうおっしゃってくださいます。
少しばかり困りながら(なぜなら、伝わらないかもしれないなぁって感じてし
まうから)お答えするのは『楽しいです』という言葉しか見当たらなくて。
実は。
一見人様からは‘優しい’人がする仕事!と思われているこのカウンセラーと
いう仕事を私が選択しているのは(他の方は知りませんよ)実のところ優しく
ないからかもしれないなぁって思うこともしばしば。
人はだれしも共感する力ってもっていますもの、共感を第一に大切にするのは
何も特別な事ではありませんよね。
この‘共感性’が十二分に発揮されているからこそ、あなたの隣の大切な人の
‘悩み、傷み、苦しみ’をお聞きするのはつらい事となり、なんとかしてあげ
たくなるから無力感を感じるのですもの。
私はこの仕事から、人生の素晴らしさを味わう事を教えていただきました。
一生かかっても体験しきれないような体験とそれに伴う感情の変化、そして人
生の思いがけない変化や出逢い、個別にその人毎におきる出来事は多彩でリア
ルでダイナミックです。
実のところ体験してる本人だけが「良くある事なのじゃないか」と感じており
、自分にしか体験できない自分自身の人生をあまり重要に扱っていないことに
もよく出会います。
多くの人は体験し得ないような少し特別な体験。
確かに‘私がそんな体験したら生き残れないかもしれない’という事をそっと
共有してくださることもしばしばあります。
そしてそういう事に関して、ご本人も自分以外の‘なにか’に導かれたり助け
られたりしたことをかんじていらっしゃるのでしょうか。
人はとても謙虚に受け止めていらっしゃる事が多く、多くは淡々とした口調で
お話されます。
そんな時は心から、人の強さを思わせていただくのです。
そして、特別な体験でなくても。
ひとつ結婚を例にとってみても、ご自身ではたかが結婚生活の中での些細な事
・・・っておもっていらっしゃるかもしれません。
だんなさまが少し、冷たくなったような気がする。
相手方のご両親とそりが合わない等々。
‘お悩み’は‘よくあること’かもしれません。
結婚相手を選択するには選択するだけの本人のその時点のベストな思考があり、他者への思いやりが隠れていたり、希望があったり、そして‘生活’という時
間の流れの中でそれぞれの努力の形跡や(それがあまりにも上手でなかったと
しても)愛情の表現があります。
すべてがひとりひとり違いそして更に、他者との関わり(過去そして現在、
時には未来)が背景や前景となり、‘私’にしかなり得ない人生を形つくっ
ていく。
これは私の好奇心ゆえ、なのでしょうか。
それとも、現代の日常生活では‘忙殺’されがちな、それぞれの人生のひだを
仕事柄でも信頼してお話くださることで、限られた時間でも一緒に感じさせて
いただくことをよろこび(楽しさ、という言葉の方がやはり近いのでしょうか
、なかなか旨く表現できる言葉がありません)と捉える遺伝子でも組み込まれ
ているのでしょうか。
時間とともに織り成されていく人生を美しいと感じさせてもらえると共に、私
がこの仕事で得られる素晴らしい事。
それは人間の本質は本来‘愛’であったり‘善’を求めるものであったりする
のかしら、と感じさせてもらえることでしょう。
人が悩むとき、それは自分本来の真実‘やりたい事’から何がしかの理由でず
れているかもしれません。
例えば誰かを攻撃しているとしても、実のところ隠れている気持ちは自分を責
める気持ちであることが多く、なぜならば‘ヒドイ’と感じる相手を心底助け
られないと感じていたり。
相手の素晴らしさに賭けていたのにその素晴らしさを相手が受け取っていな
かったり、ちっぽけに扱っていたり。
感情にお付き合いする、という手法を使わせていただく時、表面的に考えてい
る思考の礎となっている感情を1枚、1枚むいていったとき、最後に出会えるの
は愛や善である事が多いのです。
このことは、私自身の希望となり得ます。
そして、この仕事を‘ある意味途方もない道楽だな’と感じる所以の3つ目で
す。
人様とお話しするときのため、またこのようにモノを書かせていただく時のた
め、私は時間のあるときに全く行き当たりばったりにネットサーフィンの旅に
でることがあるのです。
そうそう、
このコラムを書く前の私のネットの検索バーの変遷。
魚の回遊→海遊館→鳥の渡り→地霊→ケニウスロギ→街の遺伝子→双子研究
→・・・・
目的を持たずにどこに行き着くのか解らず思考と嗜好の赴くままに深くなのか
広くなのか解らない興味の向く先。目的至上主義になりきれない事は、一応受
験が人生の基盤であった学生時代の延長の会社員時代にはコンプレックスでも
ありました。
今では。
それが、堂々と仕事と称して出来るのは私にとって制限が外れたのにも等しい
清々しさがあります。
“生産的な仕事”を生業としていた当時、仕事のみならず人間関係もいつかは
人生そのものも競争が基盤となり年齢は文字通り1つ1つ(1はあくまで数字
の1)積み重ねられ、そして過去はあくまでも取り戻せないものとして感じて
いたように思います。
当時の価値観でいうところの勝ち組か負け組みかと聞かれたとしたら、もしか
すると競争しようとしない今の生き方は見方によると負け組のように映し出さ
れるのかもしれません。
ですが。
人には人なりの生きかたがあり、適性があり、生きる場所があり。
どの生き方が上でもなく、下でもなく。
昔フクザワユキチという有名な方がおっしゃられたらしい事。
テンハヒトノウエニヒトヲツクラズ、ヒトノシタニヒトヲツクラズ。
この言葉を信じるには、いいか悪いか正しいか正しくないか、二極相反した見
方だけを用いるのでなく統合された包括した見方が必要となります。
これがよくて、これが悪い、でなくて、これもよくてあれもよい・・・という
感じ方ができるようになるのが成熟というのであれば、成熟していく事、大人
になること(今更な年齢ですが)のは柔軟になることとも繋がっていくのかし
らとも、この仕事を選択してからは感じます。
やはり。
私にとって、人様の人生に少しばかり深く関わらせていただけるこのカウンセ
ラーというお仕事は「道楽」という言葉に匹敵してしまうのかもしれません。
人は生きているうちに自分にとって「幸せなこと」って、一体なんだろうと多
かれ少なかれ考えるとして。誰かからどう見えたとしても「好きな事」を選択
できるのはそれは仕事であれ人であれ「幸せ」な事なんだろうなと思います。
そして、もしも皆さまが許してくださるのであれば‘常識’や‘社会の目’か
らの幸せでなく「わたしにとって」の「幸せ」をこれからも一緒にかんがえさ
せてもらえるのはうれしい事だなと思います。
一カウンセラーの実のところの心の内でございました。
皆さまの人生のほんのほんのほんの少しばかりのご参考になれば心から幸いに
存じます。
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