部下に対して、「これくらいのことは、やってくれるだろう」という期待。
「期待しているよ!」と部下に伝えたけれど、部下はプレッシャーを感じて、その仕事をうまくできなかったとしたら、「なんだよ」と腹が立ってしまいます。でも、こんなときに、「この仕事はやり遂げてくれると信頼しよう」と、期待ではなく信頼を使ってみると、例えその仕事を部下がやり遂げられなかったとしても、腹は立たないのです。
なぜなら、期待は人にするものですが、信頼は自分がするものだからなのです。
少々ややこしいですが、期待というのは、主導権は期待される側の人(自分以外の人)にあります。
「きっと彼は、○○してくれるだろう」というものですね。
○○するかどうかの主導権は、彼(期待される側の人)にあるのです。
対して信頼は、自分自身が「この人を信頼してみよう」とするので、主導権は自分にあるのです。
ですから、もしも信頼した通りにならなかったとしても、その責任は自分にあるので、被害者にならなくてよくなります。
まだ、信頼に足る状態ではなかったのに、信頼したのは自分ですから、もっと見る目を養えばいいだけとなりますし、信頼に足る人物に育てるのは自分の仕事となりますので、責任を誰かに押し付けなくてもよくなります。
責任を誰かに押し付けなくてもよくなるので、被害者の位置にはならないのです。
被害者の位置というのは、加害者が態度を改め、謝罪してくれないと、抜け出せないものです。
でも、たいていの場合は、「期待したのは、あなたの勝手ですよね」となり、「そんな期待を勝手にされて迷惑です」と、今度は期待した側が加害者になってしまいます。
期待というのは、依存心が元になった幻想のようなものです。
「彼ならきっと、この仕事をやり遂げてくれるに違いない」というように、本質を見極めていないことが多いのです。
そうなってくれたらいいな。
そうであってほしいな。
そんな気持ちが根底にあり、そうなるように自分以外の誰かをあてにするという依存的な発想になります。
「やってくれないと私が困る」そんな気持ちがあり、相手の力量を見極めることから逃げてしまう場合もあります。
きちんと見極めていないだけに、幻想となることが多いのです。
信頼は、依存心が元になった幻想ではなく、現状を見極め、信頼するに足る人物かどうかを見極めてから行います。
「彼は、これだけのことができるように成長した。だから次の仕事も大丈夫だ。彼を信頼しよう」こんな感じですね。
ですから、できないと困る相手をわざわざ選ばないのです。
信頼に足る人物かどうかをきちんと見極めないと、信頼はなかなかできません。
誰かに期待するのではなく、きちんと見極め、信頼できる人物を信頼していくほうが、裏切られることがなくなっていきます。
期待は裏切られるという格言がありますが、信頼は裏切られることがないのです。
そもそも裏切りというのは、相手があってのことです。
信頼は、自分で信頼するので、裏切られることがありません。
ですから、被害者も加害者も作らないのです。
また、期待されるとプレッシャーを感じる人が多いのですが、信頼されると、その信頼にこたえたいと人は思いますので、信頼した通りになる確率は上がります。
「期待しているよ!」という言葉によって、「押し付けられた」と受け取る人が多いのですが、「信頼しているよ!」と言われると、「自分の力を認めてくれているのだな」と受け取ってもらいやすくなります。
押し付けられるのは嫌なものですが、自分の力を認めてもらえるのは、嬉しいのです。
そうすると、その信頼にこたえたいと人は思うようになるのです。
期待ではなく信頼をぜひ使ってみてくださいね。
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