職場で「女性であること」を求められる~自分の有能さを引き受ける勇気をもとう~

先日、会社の経営幹部としてビジネスの最前線で指揮をとる友人と話をしていたときのこと。「サッチャーの時代は終わった。『鉄の女』のリーダーシップではなく、もっと母性的なリーダーが出てきたから女性のリーダーが増えたって言うけれど、それって『お母さん』が欲しい男性の勝手なイメージの押しつけじゃないのかしら?」

と彼女は切り出しました。

男性が仕切る企業風土に風穴をあけるために迎えられた女性リーダーのはずなのですが、いえ、だからこそかもしれませんが、どうも自分に期待されているのが「母親」役割らしい、ということに気づいた彼女はいささか不満顔。ビジネスの世界で生き抜くために磨いてきたのは仕事力。ビジネスの場で認められたいのも仕事力。今さら「オンナ」としての自分をそこで評価してもらいたいわけではありません。同じ女性としてその気持はすごくよくわかります。

「プライベートでも『お母ちゃん』を求められるし、会社でも『お母ちゃん』になってほしい人ばかりで。もう正直なところウザイわぁ。みんな会社には仕事をしに来ようよ、って思うの」。

ごもっともです。

別の30代の女性は、年上の先輩男性たちに「娘」であることを求められる、とこぼします。

「自分の娘に相手にされていないのかしら?おじさんたちがやたらと私と仲良くしたがってすぐ近くに寄ってくるから気持悪いんです。何でも話に加わろうとするし。それでいながら、肝心の仕事になるとやらないし、できない。リーダーの役割のある人たちなのに。それも私がやらなきゃダメなの?って感じでもう疲れました」。

「優しさ」を強要されているように感じてしんどそうですね。

「女性にもっと労働市場に参加してもらって、女性の視点や感性をビジネスに取り入れよう」というスローガンはもっともらしく聞こえます。でも、「女性」だから生活の視点がある、「女性」だからやさしい、と決めつけるのもどうかと現場で「オンナ」を求められては閉口している女性たちの話を聞くたびに思います。

一方で、遠慮のないガールズトークにさらされて血祭りにあげられる男性が「これもセクハラにならないのか?」と思うことだってありそうです。

ビジネスの世界にも、受容力や共感力、柔軟性など、女性性と言っていい要素がもっと必要ですが、個人レベルでは、男性以上に男勝りの女性は多いし、女性には及びもつかないほど繊細で生活の視点をもった男性も少なくありません。女性が「決断力」で評価されてもいいし、男性が「優しさ」で評価されてもいいはずです。

十分とはいえないまでも、女性が社会参加するための法的整備が進み、経済的に男性も女性も働かざるを得ない現実があるからこそ、「男性だから」「女性だから」「男性なのに」「女性なのに」をこえて、共に「仕事をする」仲間としての関係性を育みたいものです。

とはいえ、今、この現実があるなかで、私たちはどう自分の気持ちと向き合い、整理し、社会と折り合っていったらいいのでしょう。

「オンナ」役割を求められることが多くて疲れきっているというご相談をいただくとき、私は、

「もっと自分の有能さを引き受けましょうよ」

とお伝えすることが多いです。

「女性はカワイくあるべきだ」「優しくあるべきだ」という観念に、女性自身が縛られていると、なかなか「有能な仕事人」を表現しきれません。「有能」であることに女性の方が遠慮や抵抗感があると、つい声や表情に甘えや媚が混じり、男性も話の内容以上に、その表現に潜む「私はカワイイでしょう?」「優しいでしょう?」という暗黙のメッセージに反応します。

私が米国でビジネスコミュニケーションのコーチングを受けたとき、最初に指摘されたのが「かわいくあろうとしないで。知的であることを遠慮しなくていいのよ」でした。さらに、私の電話の応対を聞いては、「それは家にかかってくる電話の応対みたい。そこまで優しい口調でなくても尊敬やホスピタリティーを伝えることはできる」というコメントをもらいました。

「女性」であることで好意的にみてもらいたい、とどこかで甘えている私の心を見透かされたようで痛かったです。

「有能になってしまうと男性にモテないのではないか?」。そんな不安が心をよぎることはありませんか。男性より3歩下がっていなければ「ステキな女性」と見てもらえないのではないかという心配が、あなたが「有能さ」を発揮することにブレーキをかけていませんか?

もしも、せっかくの「才能」を、「女性として見てほしい」という気持ちから抑えているとしたら、それはあなたにとっても世の中にとっても、もったいない話です。

逆に、「女性」であることで下に見られたくない、バカにされるものか、と男性と競争するかのようにことさらに自分の「有能さ」をアピールしたくなることもありますね。自分が「有能」であることを知っているならば、そこまで頑張らなくてもよさそうなのに。

過ぎるは及ばざるが如しなんて言いますけれど、どちらの心の態度も、「女性」であることと「有能さ」は両立しないという思い込みに縛られています。冷静に考えれば、そんなはずはないのですが。

女性が(そして男性も)、そのような間違った観念に囚われているのは、歴史的な価値観、社会的な刷りこみ(無自覚に教え込まれた)があってのことでしょう。それを突き抜ける勇気をもつには何が必要なのでしょうか。

逆説的ですが、私は、女性が「有能さを引き受ける」勇気は、「女性」としての自信の中から生まれると思っています。

「カワイイ」と思ってもらえなくてもいい。
「優しい」と思ってもらえなくてもいい。
「女性」として評価してもらえなくてもいい。

投げやりな気持ちからではなくてそう思えるのは、自分の女性性が「有能さ」や「才能」でかき消されないという自信が根っこにあってこそでしょう。

「女性」である自分のことを好きになれた分だけ、自分の「女性」の部分への評価も手放すことができます。女性であることで背負う負荷をひっくるめて、あなたが自分が「女性である」ことを許せた分だけ、「有能さ」や「才能」も楽に引き受けられるのではないでしょうか。

母性的な女性のリーダーが増えてきたことも、男性のニーズと呼応したからという以上に、女性が「女性であること」をどのような場面でも肯定できるようになってきたことの表れならば私は嬉しいと思うのです。

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