私達は、集団で何かに取り組みその集団の目的を達成する場面がとても多くあります。
会社全体もそうでしょうし、社内の部、課、係といった組織も集団です。また、コミュニティーや家族もひとつの集団ですね。
私達が一人で何かを行うときには、個人の感情や行動パターンがそれに反映されて目的に対する結果が得られますが、集団の場合には、集団であることに起因した個人の行動パターンが現れます。1964年のある夜、ニューヨーク市の郊外で殺人事件が起こりました。
深夜遅く帰宅した女性が駐車場からマンションの入り口までの間に3度も暴漢に襲われ、マンションの入り口に入った3度目の襲撃でその女性は刺殺されました。
1度目の襲撃の時、その女性は悲鳴をあげ、付近の住民がそれに気がついて灯りを点けたり窓を開けたりして襲撃は終わりました。2度目の襲撃も同じ事が繰り返されました。そしてとうとう3度目の襲撃で彼女は刺殺されたのでした。
この20分余りの間、38人もの住民が事件に気がついていましたが、彼女を助けようと外に出てきた人は誰もおらず、また、警察に通報した人も誰もいませんでした。
当時、新聞では都市化の進展で人間が冷淡になったとのではないかと論評されましたが、ニューヨーク大学の社会心理学者であったダーリーとラタネらは、この現象は「たくさんの人だったからこそ、誰も行動できなかったのではないか?」と考え、それを証明するために次のような実験を行いました。
先ず、実験の参加者(被験者)には、「個室でインターホンを通じて大学生活に関する個人的な問題を討論する。内容はテープに録音するので実験者は聞いていない」と伝えました。
討論は、最初の2分間ずつ順に「自分の悩み」を話し、次に同じく2分間ずつ順番に感想を述べて、最後に自由に話すというというものでした。また、最後に自由に話す時まで、インターホンは一方向へしか通じないと伝えられました。
討論が始まると、最初の話し手が「自分は病気にかかっていて発作が起こるので大学生活を上手く過ごせるか心配である」と話をしました。そして2回目の感想を話す時間に、その最初の話し手が突然発作を起こすというものでした。
最初の話し手は架空の人物で、自分の悩みも、発作も全て演技をテープに録音したものでした。
実験は、発作を起こす人と自分だけの2名の場合、3名、4名、6名の場合と説明して行われましたが、実際の被験者はいずれの場合も1名だけで、あとは録音テープによる演技でした。
実験の結果、自分しかいない2名の条件では全ての人が、3名条件では85%の人が、6名条件では62%の人が個室を出てそれを助けようという行動に出ました。
この結果から、周囲に人がいるほど「自分がしなくても誰かがやってくれるだろう」という“責任の分散”と、「自分だけが行動して何でもなかったら恥ずかしい」という“評価懸念”、「他の人も行動しないのだから行動する必要はないのでは?」という“多数の無知”が影響したのではないかと考えられています。
なお、助ける行動をとらなかった人達も、全員発作を起こした人を心配していましたが、なぜ自分が助けに行かなかったのか明確に説明できる人はいませんでした。
会社全体もそうでしょうし、社内の部、課、係といった組織も集団です。また、コミュニティーや家族もひとつの集団ですね。
私達が一人で何かを行うときには、個人の感情や行動パターンがそれに反映されて目的に対する結果が得られますが、集団の場合には、集団であることに起因した個人の行動パターンが現れます。1964年のある夜、ニューヨーク市の郊外で殺人事件が起こりました。
深夜遅く帰宅した女性が駐車場からマンションの入り口までの間に3度も暴漢に襲われ、マンションの入り口に入った3度目の襲撃でその女性は刺殺されました。
1度目の襲撃の時、その女性は悲鳴をあげ、付近の住民がそれに気がついて灯りを点けたり窓を開けたりして襲撃は終わりました。2度目の襲撃も同じ事が繰り返されました。そしてとうとう3度目の襲撃で彼女は刺殺されたのでした。
この20分余りの間、38人もの住民が事件に気がついていましたが、彼女を助けようと外に出てきた人は誰もおらず、また、警察に通報した人も誰もいませんでした。
当時、新聞では都市化の進展で人間が冷淡になったとのではないかと論評されましたが、ニューヨーク大学の社会心理学者であったダーリーとラタネらは、この現象は「たくさんの人だったからこそ、誰も行動できなかったのではないか?」と考え、それを証明するために次のような実験を行いました。
先ず、実験の参加者(被験者)には、「個室でインターホンを通じて大学生活に関する個人的な問題を討論する。内容はテープに録音するので実験者は聞いていない」と伝えました。
討論は、最初の2分間ずつ順に「自分の悩み」を話し、次に同じく2分間ずつ順番に感想を述べて、最後に自由に話すというというものでした。また、最後に自由に話す時まで、インターホンは一方向へしか通じないと伝えられました。
討論が始まると、最初の話し手が「自分は病気にかかっていて発作が起こるので大学生活を上手く過ごせるか心配である」と話をしました。そして2回目の感想を話す時間に、その最初の話し手が突然発作を起こすというものでした。
最初の話し手は架空の人物で、自分の悩みも、発作も全て演技をテープに録音したものでした。
実験は、発作を起こす人と自分だけの2名の場合、3名、4名、6名の場合と説明して行われましたが、実際の被験者はいずれの場合も1名だけで、あとは録音テープによる演技でした。
実験の結果、自分しかいない2名の条件では全ての人が、3名条件では85%の人が、6名条件では62%の人が個室を出てそれを助けようという行動に出ました。
この結果から、周囲に人がいるほど「自分がしなくても誰かがやってくれるだろう」という“責任の分散”と、「自分だけが行動して何でもなかったら恥ずかしい」という“評価懸念”、「他の人も行動しないのだから行動する必要はないのでは?」という“多数の無知”が影響したのではないかと考えられています。
なお、助ける行動をとらなかった人達も、全員発作を起こした人を心配していましたが、なぜ自分が助けに行かなかったのか明確に説明できる人はいませんでした。
会社で、あるいはビジネスのシーンでもこのような“責任の分散” 、“評価懸念”、“多数の無知”による問題はよく起こります。特に、その仕事の権限を誰が持つのか、その仕事の責任を誰がもつのか曖昧になっている場合によく見られる現象です。
上司と部下の関係では、権限移譲が上手くできていないと(どのような種類の権限をどこまで与えるのか)“責任分散”が起こりがちになり、仕事がうまく進まないという事態に陥ってしまいます。
上司は部下に与える権限と責任を明確にし、「責任は俺が取る」ぐらいの気持ちで部下を信頼できると、部下のモチベーションも上がり、集団としての力が発揮できるのではないかと思います。
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