●自分を責めるよりも大切なことは・・・

心理学やカウンセリング用語にはなかなか難しい言葉も多いのですが、一方では心に染みるような、また、身が引き締まるような『格言』みたいなものも多くあります。
フロイトが哲学者の系譜にも登場するように心理学も一部の流れは哲学に属するので、なお更、そんな言葉は多いのかもしれません。
さてさて、昔の僕の話。
罪悪感のレクチャーを持たせていただいたのも、僕は自分では全然意識しないところでこの罪悪感をいっぱい持っていたからです。
まあ何かあると全部自分が悪いと思っていたんですね。彼女とケンカするのも、仕事がうまくいかないのも、自転車が壊れるのも、友達が待ち合わせに遅れるのも、コンパがイケてないのも、ぜーんぶ僕が悪いって思っていました。
もちろん、何かミスをしたり、人様に迷惑をかけようものなら打ち首獄門の刑に処さんばかりの勢いで自分を責めていたんです。
だから、ミスをしないようにしないように繊細に繊細に気を使って物事を考え、進めていました。
もちろん、そんな自分を責めてるなんてことはあまり意識したことはなかったんです。
気付いたとしても、当然の罰と思っていました。
ところが、自分がカウンセリングやセラピーを受け始めることになって、色んな言葉が耳に入ってきました。
その中には何度聞いても理解できない言葉もありました。
今までの自分の発想にない言葉であればあるほど、日本語の意味は理解できても、その言葉を受け入れることができないんですね。
例えばそんな言葉の一つに「自分を責めるよりも偉大なこと。それは誰かのために自分のすばらしさを受け取ること」というのがありました。
罪悪感があったり、無価値感(自分は愛される価値などないという感情)があると、自分のすばらしさなんてのは受け取れません。そもそも自分にそんな部分があることなんて信じられないものです。
「じゃあ、ミスしたときは?失敗したときは?」って思われるかもしれませんね。
実はそういう場面にも格言は存在していて「ミスは訂正を求められるだけ」というわけです。
「失敗も何かを学ぶためにのみ存在している」という言葉もあります。
ミスや失敗に応じて謝罪することももちろん必要でしょうし、人が絡む場面では色々と問題が複雑化してしまうことも確かにありますが、その気持ちと自己攻撃とはちょっと違うと思うんですね。
つまり「申し訳無い」と思うな!「ごめん」って謝るな!ってわけではありません。それを使って「俺は馬鹿だ、ダメな奴だ」と自分を責めるのは違うんじゃないかな?ということです。
話がちょっと横に逸れました。
僕も自分にすばらしいところがあるなんて思いませんでしたし、そもそも自分を責めてることすら気付かなかったわけですので、最初に聞いたときには「ふーん、そうか・・・。でも、俺には関係無いことやな」でした。
当時の僕にとっては自分を責めるというのは文字通り、自殺願望があったり、自傷行為があったりっていうイメージでしたから。でも、実際は自分が悪いと思って「こんなんじゃダメやろ?」って自己攻撃するのも立派な自分を責めてる行為なわけです。
その後、運悪く(?)自己攻撃をしていることに気付いた後で再びその言葉を聞いたときは「そんなん言うたかて、自分のすばらしさなんてなんやねん?そんなんあるわけないやんけ」でした。
その期間はとても長かったですねー。
天狗になってしまうのが嫌だったし(そもそも僕はそういう傾向があるのでなお更・・・)、不思議なことに楽になってしまうことも嫌悪してました。
まだまだ修行の身って意識が強すぎたのかもしれません。あとは自分を責めることに一種の喜びを感じているところもありました。
変な話ですけどね。そうやって敢えて自分に厳しくしようとしてたのかもしれません。
でも、僕も自分でカウンセリングを学び始めて初めて気付いたんですが、カウンセリングやセラピーってその人の価値を見ながら話をするんですね。どんなにひどい状況の人にも30分も話せば価値の一つや二つは簡単に見つかります。
だから、何か提案するときは「あなたにはこんな価値があるから、○○できるはずですよ」って話し方をするんです。
僕はこの経験があるから尚更このことにこだわりを持ってカウンセリングをしてます。
そんなわけで、セラピーを受けるたびに「あなたにはこんな価値があります」みたいなことを言われ続けるんです。
グループセラピーを受けるに至っては、下手すると何十人って人からそんな言葉をかけられるわけですから、はっきりいってとても恥ずかしいです。
「お前ら、偽善者やろー」って怒ってるときもありました。
ま、ホントはうれしいんですけどね(笑)
素直になれないわけです。
でも、いざ受け取ろうとすると・・・これが、また難しい。
頭の中で天使君と悪魔君が戦いはじめます。
天使君曰く「素直に受け入れて楽になろうよ。そのほうが楽しいし、うれしいじゃん」
悪魔君曰く「そんな言葉に乗ってみろ。嘘に決まってるやろ?後からお調子ものとかみんなに叩かれるに決まってるやろー」
そんな言い争いが始まります。
しかも、大抵は悪魔君が圧倒的に優勢だったりもします。
大人になってしまうとなかなか「自分のために受け取る」ことが難しくなるものです。
だから敢えてこの格言には「誰かのために」って一言がさりげなく入ってるわけです。
(良く出来ているものです)
自分自身を責めたところで誰も喜ばないし、幸せになれるわけでもありません。
実は理加も自己嫌悪が激しく、自分を責め続けている人でした。
だから、その側にいる者として自己攻撃をしている人の周りにいる人たちの気持ちも嫌って言うほど分かります。
うれしくないどころか、哀しいし、むかつくし、とても寂しいものです。
だから、もし僕が自分を責めている姿を彼女や家族や友達が見たらどんな気持ちになるんだろう?天国にいる親父や親友が見たらどんな気持ちになるだろう?って。
そう考えたときに、彼らに対して今までもずっと申し訳無いことをしてきたんだなあ・・・ってじわっと感じてしまったんです。
そういうときに限って、僕が好きな人たちの笑顔が次々に浮かんでくるものです。
なんだかいたたまれないような切ないような気持ちになりました。
そうして「やめなきゃなあ、やめたいなあ、できるんかなあ、とりあえずやってみよう」って僕の新しいチャレンジが始まったわけです。
新しいことにチャンレジするときは不安で、自信がないものです。
そしたら早速新たな葛藤がやってきました。
やや天使君が劣勢を跳ね返して力を付けて来たって感じでしょうか。今までは悪魔君の圧勝で終わっていたのが、五分五分ぐらいになってきてなかなか熱戦が繰り広げられたのです。
「受け取りたい・・・でも・・・うーん、うーん、うーん。・・・できひん」みたいな。
で、またうまく出来ない自分を責めてみたりもしました。
「ほんまにもう、ひねくれてるんやから。そんなことしててもしゃあないやろ?なんとかせいや」って。
もちろん諦めたくもなりました。
僕より遥かに上手に受け取る奴もいて、嫉妬もしました。
でも、でも、そういうときにもこの「誰か」を思ってしまうとやるしかなくなってきます。
「うまいことやられたーっ!」て感じです。
さて、その結果どうなったか・・・。
すばらしさを受け取ること。今もやっぱり恥ずかしいし、やっぱり照れます。
悪魔君も劣勢ながらもまだまだ頑張って抵抗してくれます。
でも、それを伝えられたときは「うれしい」とか「ありがとう」って言葉はお返しできるようになってきましたし、自分でもそういう言葉をなるべく忘れないように、自分でも自分の価値を探すようになってきました。
例えば「俺ってよく頑張ってるよなあ」って思えるようになったりね。
今まで「まだまだダメやなあ」としか思えなかったのにね。
そして、やっぱり受け取れた分だけ幸せを感じられるようになったような気がします。
これを読まれた方。
もしかしたらもう既にあなたの頭の中で悪魔君と天使君が争いを始めてるのかもしれません。
自分を責めるよりも大切なこと。
それは、誰かのために自分のすばらしさを受け取ってみることです。
がんばりましょうね。
根本裕幸

この記事を書いたカウンセラー

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