●存在

先日、妹と久しぶりに見たいなと思った映画があって見に行ってきました。
その映画は「黄泉がえり」です。
まだ公開中なのでストーリには詳しくは触れないでおこうと思います。
とってもいい映画でした。
生きていることの大切さ、大切な人を見送る人の心情、大切な人を置いて旅立つ人の心情がすごく伝わってきました。
とってもせつなくて、でも美しい話でした。
この映画を見て、病気で亡くなった父の最後をふと思い出しました。
私の父はガンで亡くなったのですが、亡くなる前の最後の1週間をホスピスで過ごしていたんです。
この時はガンが脳にまで転移していたようで、意識が混濁していました。
そして、うっすらと意識が戻るとすごく苦しい表情をするので
お医者さんと相談して、意識のレベルを落として眠っていられるようにしてもらっていたんです。
ですから容態がおかしくなってからの一週間は、意識が無い状態だったんですね。
当然意志の疎通はできないし、私達家族は、ただ眠っている父の傍に居続けることしかできませんでした。
「一見、意志の疎通が出来ていないように見える状態ですが、耳は聞こえているんですよ。話しかけてあげて下さいね。」と看護婦さんに教えてもらいました。
内心本当に聞こえているんだろうか?と当時の私は疑ってしまったんですが、でも、もし聞こえていたら・・・と思い、出来るだけ話しかけてみました。
父の傍で何にもしてあげることが出来ないので、家族で思い出話をしたりして過ごしました。
聞こえているのか、いないのか、もちろん父は何の反応も示しません。
それでも家族で思い出話なんかをして、笑いあったりしている時はまるで家族で団欒をしているかのような雰囲気でした。
亡くなる4・5日前だったでしょうか。
母と妹が用事で家に何時間か帰るので、私だけが傍についていてあげる時間がありました。
二人きりでいるなんて、何年ぶりだろう?と思いました。
外はもうすっかり日が暮れて、寒そうな風が吹いています。
そして病室の中はうっすらと枕元のライトの明かりで照らされていました。
私は一人で聞いていたウォークマンの片方のイヤホンを「お父さんも聴く?」と父の耳につけてあげました。
その時聴いていたのは、「Misty」というJazzの曲でした。
とっても美しいピアノの音色がゆっくりと私達の耳に流れてきます。
ここが病室であることを忘れてしまいそうな、ゆったりとした時間が流れていました。
何気なく父の手を見ると私の手の形とそっくりでびっくりしました。
今までそんなことに気付いたことがなかったんです。
(へぇー私の手はお父さん似だったんだ・・。)と感心しているうちにふと、父に触れたいと思いました。
誰も見ていないのにそんな考えが浮かんだだけで、何か恥ずかしい気持ちになりました。
でももうこんな機会はないかもしれないと思い、寝ている父の胸にそっと抱きついてみました。
とっても恥ずかしがり屋の親子だったので、大きくなってから父に触れたことなんてありませんでした。
何だか自分が小さい女の子になったような不思議な気分でした。
そして懐かしい気持ちがしました。
そして数日後、父は逝ってしまいました。
最後の一週間は意志の疎通もできなくて、ただ横たわっていた父でしたが、ただそこにいてくれているだけで良かったんです。
ただ存在してくれているそれだけで・・・。
そこに居てくれているのと、いなくなってしまったのでは本当に大違いでした。
ただそこに存在してくれていることの存在感。有難さ。
父が亡くなった後にそのことを思い知りました。
私達は普段多かれ少なかれ、自分が何かをしているから、例えば働いてお金を稼いだり社会に貢献しているから、家のことをきちんとしているから、誰かの面倒をみているから、誰かの期待に答えているから価値があるって考えがちですよね。
でも、父を亡くした時に私が知ったのは、ただ私達が私達として生きている存在しているというだけで、もうそれはすごく価値があることなんだと知りました。
何かの役に立っていなくても、何かが出来るからではなくても・・・。
存在しているだけで、既に誰かを幸せにしているんです。
私達が思っている以上に私達には価値があるんですね。
それを本当に感じられるようになったとしたら、もっと楽にもっと幸せになれるような気がします。
カウンセリングをしていると、自分になんて価値がないと感じてらっしゃる方にたくさん出会います。
でも本当はそうではないんですね。
自分の本当の価値に気付いていって欲しいなといつも願っています。
根本理加

この記事を書いたカウンセラー

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