●私の職務経歴書 その壱

今のカウンセラーという職にに携わる以前、私が相当のエネルギーを注いでいたことの一つが‘仕事’でした。
金銭的な理由から昼夜を問わずに働き続けた母を見ていたせいでしょうか、‘仕事’をしている時間は私にとってはある意味‘許されている’感じがしたのでしょうね、お陰で遊ぶことをかなり忘れていました。
営業職として採用された会社において、初めの障壁は地元以外への赴任。
まず土地勘がない、知り合いが居ない、言葉がわからない、表情が読めない、つまりはコミュニケーションレベルでの誤解は相当あったと思います。
相手がどう受け取っているのか、脅威に感じてしまい人が怖いという気分にまで落ち込んでしまうこともしばしばありました。
同じ単語を使っても、地域が違う、文化が違うという要素でこれだけ個人の受け取り方が違うんだな・・・というのをある意味極端に思い知らされたように感じます。
職場のかたたち、また営業先の皆さんにはまだ当時珍しかった女性の営業職として様々な配慮を頂いていたということに気がついたのは、この赴任先から転勤し地元へ帰ってきてからでしたが。
例えば 可能な限り既婚の先輩の近くに住居を決める、営業所に顔を出した時には声を煩いくらいかけられる、事前に同業者にはこんなん配属されるのでよろしく、などある意味‘包囲網’ではありましたが孤立するという状況を避けるように配慮していただいていたようです。
2年後に 実家の都合もあり地元へ転勤する機会がありました。
丁度、そろそろ仕事ってこんなのかなって見えてきて上長に対する不満などをもち始める時期。
勤めていた企業は外資系で日本での本格的に全国展開を始めたのが私の入社から二桁たっていない状況でそれぞれに置かれた管理職は他社からの引抜がほとんど、といった会社だったため転勤後は今度は社内の文化の違いで四苦八苦。
さらに配属された先では、チームが全くまとまっておらず人が二人集まれば誰か他の人への攻撃。
「組織の人間は一つ上の視点からものを見ろ、下はほめろ、どんな人であってもいいところを見て自分の力にしたほうが得、自分にない発想する奴と付き合え。」と教えられた私にとってはやっぱりここもまるで外国に来たような感覚を持ちました。
その中で上長への批判と葛藤を持ち始め、仕事への気力をかなり失っていきました。
上長とのバトルは同僚たちにも心配をかけるようになり、自身も得意先で大きな失敗をするようになりました。
一番に違和感を感じたのは‘スケープゴート’的な存在が必ず一人はいつも居る…という状況そのものだったんですね。‘全員が成功する’って無理なのかしら?
実はでも、その状況をつくることに参加していたのは自分だと気がついたのは、心理学を学び始めてかなりたってからでした。
私自身が攻撃する人たちを攻撃する、ということで結局その場を戦場とすることに同意していた、ということなんです。
きつい、苦しい、どう良くしていったらいいのか分からない、という状況から抜け出すきっかけになったことのは、疑心暗鬼の世界の中で私が本音を言うという勇気を持てた事にあるかもしれません。
上長と仕事のやり方、考え方が合わず得意先に関しての報告は脚色・若しくは報告しない・・・という逃げ方をずっとしていました。
死んだ振りしてやり過ごすのも性に合わなかったので口論して時間を潰したり気分を害するよりは接触をさけておこうという態度でした。
ですが、上長から持ち込まれた企画を自身の得意先で実行するように言われ、同僚からも「上の言うことなんか聞いておいたらいいやん、あかんかったら逃げたらええねん。サラリーマンなんだから強情張ったら自分が損するだけやで」と説得されもしました。
自分としてはどうしても納得できなかったんですね。
会議も終わった後に更に上長に呼び出され、「なぜ出来ない?」と延々と問いつめられることほぼ数時間たった後、私が本当に言いたくて言えなかった一言をやっと言えたんです。
「あなたが信頼できないからです。
」と。
彼を傷つけてしまう言葉だったかもしれません、論点が全くずれていたかもしれません、ただ、私がこれだけはいってはいけない言葉だという勝手な自分のルールを破り本音で話し始めたとき彼のハートに響くものがあったのでしょう、やっと本当の「話し合い」が始まりました。
そこからやっと、上長・同僚との関係に変化が起き始めました。
今から考えると、実はこの言葉こそ 信頼しないと言えない言葉だったんですよね。
「本当に感じていることを伝える・・・」
よくパートナーシップにおいてのカウンセリングにおいてもお伝えするエッセンスです。
ただ、どんな人間関係においても有効なのかもしれません。
このことがあって以降から、
「どうせこの人頭固いから・・・」
「この間も何も聞いてくれなかったじゃないか・・・」
そう感じている痛みを癒していく一つの鍵は、勇気なんだなぁ、ちょっと大げさかも知れませんが私はそんな風に思っています。
結局 その上司とはめちゃめちゃ仲良しさん♪という関係までは、さすがにいきませんでしたが当時抱えていた、職場におけるストレスは徐々に軽減されていきました。
その次の上司は、会社での仕事の業績に関する評判はあまりよくなかったのですが、人間としてとってもお茶目な人でした。
彼のお茶目な性格をいかに後輩たちに紹介し、彼を信頼できるような空気をつくるのかが私の業務外(?)の楽しみの一つでした。
会社にしがみついている、と言われたこともありました。
なぜそこまでこだわるのかと。
今では随分と家族との関係も楽になってきましたが帰属感のなかった私にとって‘会社’は私に「居場所」という安心感を与えてくれていたのでしょうね。
初めの赴任先でこの「安心感」を感じれたからこそ、多分 色んなことがあってもかろうじては立ち続けていられたんだなって振り返ってみて思います。
有形なものに価値を見出すこと、競争に勝つこと、大切だけど無形のものの大切さも感じながら仕事をすることができたら、もう少し豊かさを感じれる社会になるのかなって密かに思っていたりもします。
地元へ転勤した当時、ストレスで数週間に一度は栄養の点滴してもらっていたり、気分がすさんで同僚と話しをするのすら警戒していた頃 営業さんだったのですこーしだけさぼって泣きながら海を見ていたときもあるんですよね。
空港近くでぶらぶらしながら飛行機を見ていたこともあります。
飛行機が旋回するのをみて感じていたことは「これもだれかの‘夢’だったんだよなぁ」って思ってました。
いつかきっと人が空を飛べるんだ・・・
そんな夢をみたところから、始まったんだよなぁって。
そうそう、
その会社の創業当時からのキャッチコピー(っていうのかな)があって
「ミラクルをちょうだい」っていうのがあったんですよ。
医療関係の方はご存知かもしれません。
会社の創業者がドラッグストアをやっていたらしいんですね。そこに幼い少女がこの言葉を言ったらしいです。
事情を聞いてみるとお母様が不治の病にかかられたとの事。
お医者様が大人たちに説明した「彼女が助かるのはもうミラクル(奇跡)しかない・・・」という言葉を盗み聞いた幼い少女はなけなしのお金を持ってドラッグストアに‘奇跡’を探しにいった・・・。
それがきっかけとなって、創業者は製薬企業をはじめた・・・という経緯です。
なにせ宣伝の得意なアメリカ企業ですので着色もあるかもしれません。
でも、こんな「何かがあったら大切な人が助かるのにな」って思い・・・。
みんなの心にも密かにあるんじゃないかなって思います。
絶対あり得ないって思いながらも見続けている夢、それがビジョンといわれるものなのかな、そうやっと思えるようになって来ました。
そうかんじて初めて、まったく無駄だったんじゃないかなと思っていた時間や出逢いや人、ものに意味が持てるのかもしれません。
そうかんじて初めて、「期待していたのに与えられなかった」という痛みが自分の出来ること与えられることとして自信がもてるのかもしれません。
若い時期は画一的でない自分、でこぼこな自分、規格外だなって感じてしまう自分、集団のルールに収まりきれない時に自分をすごく迷惑な存在だって感じてしまうことあると思うんです。
でも願わくば そんな自分を責めないで欲しいなって思いもあります。
あなたがあなたとして、感性を生かしだした時にこそオリジナルな新しい分野というのが始まるんじゃないかなって思います。
そんな若い感性を「面白い」って感じれる自分でありたいなぁっていうのは少しだけ年齢を重ねた私の想い。
今日も一日おつかれさまです。
皆さんに今日も良いことがありますように!

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