お洗濯モノを屋外に干せる事が楽しみの一つになってきました。
夏・・・ですね。
生まれた当時から田園風景の中で育ってきたものとしては、青々とした稲の背たけで季節を感じ、時の流れを計っていましたが、暮らすところが変化するにつれ季節をどう感じるかにも歴史が刻まれてきたのかもしれません。
ここ数年、年賀状で今まで縁があった方たちにご挨拶することにも多忙を理由に出来ずにいた私。
ここ数年の不義理を思い、ぼちぼちと思いつくままに暑中見舞いを出し始めました。
あまりに季節はずれな近況報告に返信も期待せぬまま数日が過ぎた頃、連絡をさせていただいたかたほとんどからなんらかのご返信をいただき日頃の不義理をやはり痛切に思い知ることとなりました。
そして、1枚の官製はがきもその中にありました。
薄めのボールペンで書かれた筆跡にはあまり見覚えがなかったのですが、差出人を確認してみると数年の間会っていない母がたの祖母のものでした。
‘多忙’のままに埋もれていた記憶のページがぱらぱらと開きます。
夏休み、いわゆるお盆近くになると必ず訪れていたのは母がたの実家。
京都といっても、日本海と接している丹後半島というところに母がたの実家がありました。
父の運転する車に乗り、または母と姉と共に列車で、行く経路は様々でしたが、はやる心と共に祖父母の家に自宅から数時間をかけて到着します。
ガラガラと引き戸を開けて初めて耳にするのは‘ガタン、シャカ、シャカ、ガタン、カタ、カタ、カタ・・・’というリズミカルな機械の音。
地場産業であったちりめん織機の動く音。
木で作られた通常の建物の2階部分まであるような大きな機会の心地よい音が玄関の外まで響きます。
幼少の頃から‘引っ込み思案である’という自己概念をしっかりもっていた私は母の足元に半身隠しつつ「こんにちは!」と叫ぶのが精一杯です。
祖母はちりめん織機の置いてある広い土間を通り抜けたところにある、居間から‘いらっしゃい・・・’と毎年同じように目をくりっと見開いて出てきてくれます。
母のきょうだいたちはやはりこの家を心地よく感じているのでしょうか、皆が家族を連れてこの季節に集まります。
祖父はものをあまりたくさん語る人ではありませんでしたが、クリスチャンであり彼の通う教会へこの夏休みの滞在の日程が日曜日にかかれば必ず祖父にくっついて徒歩10分ほどの教会へむかうのが楽しみの一つでもありました。
祖父母が毎年欠かさず必ず用意してくれていたのは、私と姉のために新しい文房具をひとつずつ、そして好きであろうジュースを酒屋さんでいつまで長居してもいいように1ケース。
祖父にはほっぺたが落ちそうな子供だったことで‘おむすびちゃん’といつもからかわれていたこと、
(それ以外にも私をからかうために祖父は数限りないあだ名を用意していました・・・
祖父の運転する軽トラックは母や母のきょうだいたちからは‘運転があらい!’と注意されていたけれど私はこの軽トラックの運転の荒さに伴ったスリルが誰にも言えなかったけど大好きだったこと、
いわゆる‘おかず’というものが小学校にあがるまでほとんど口にできず祖父の勤める製麺屋の‘うどん’しか口にしない私の為に祖母が作り置きしてくれていた‘だし’が大好きだったこと、
宵っ張りの子供の私とトランプをして遊んでくれたおばちゃん、
同じく夜中の映画に付き合ってくれたおじちゃん、
お気に入りで肌身離さず持っていたくまのぬいぐるみを祖父といった教会に置き忘れ、大騒ぎをして探し出してもらったこと、
ひとつ思い出すと次から次へと、思い出すのは私に向けてくれていた笑顔の数々。
何の飾りも無い官製はがきに、祖母が書いてくれていたのは、
「直ちゃんのお便りを拝見してなにか明るい文面で嬉しく思っています。
いろいろあって気分が落ち込んでいたのですが、直ちゃんがしあわせになってくれたら皆明るくなりますよ。」
思いがけずに目頭が熱くなりました。
泣き虫だけど、自分のことではあまり泣かなくなってきてたのに。
(なんだ、それでよかったんだね。)
‘誰かのため’に、頑張ってきたこと結構ありました。
‘難しいこと’に挑戦することが人を救うことだ、とも感じてきました。
‘家族のため’に犠牲的な事を選んだこともあります。
‘たくさんのことを成し遂げる’ことが周りの人を幸せにすることなんだとそれだけを本気で信じていたこともあります。
そういう行動原理が私に与えてくれた恩恵ももちろんたくさんあります。
自分自身の傷や痛みが、癒されたせいかもしれませんし、以前に比べると自分と自分以外の状況への理解と対処が年齢と経験で少しはできるようになってきたからこそ、そう感じることができたのかもしれないのだけど・・・。
幸せというものがどういう形であれ
幸せを願ってくれている人からの言葉は深く胸に染み渡ります。
祖母はつれあいである祖父の他界後、景気のこともありちりめんを織るのをやめ今はこどもたちの家を自分の意思で転々としています。
祖父は戦争時代にシベリアに抑留され、徴兵された5年後に戻ってきたそうです。
祖父が戻ってくるまで、彼女は一人目の娘である母を抱え何を考え何を信じて生きていたのだろうなと今の歳になると聞いてみたくもなります。
状況や環境(物的であれ人的であれ)はいまと違っていたとしても、女性としての生き方のひとつだと感じられるようになった私は少しは成長しているのでしょうか。
自分自身が幸せになること、幸せで居ることの大切さを教えてくれた祖母と愛してくれている人たちに感謝しつつ、今年の夏は夕涼みしながら祖母と話をするのがとても楽しみになりました。
どうかみなさま、よい夏をおむかえくださいませ。