●流れる河のように〜私の中に流れるもの、私の周りを流れるもの〜

 最近、よく祖父母のことを思うんです。
勿論私にも祖父と祖母は二人ずついて、母方の祖父母は私が大人になるまで元気でした。
方や父方の祖父は、亡くなってもう70年は越えるのではないでしょうか、父が4歳くらいの頃、と聞いていますから。当然会ったことも無ければ、祖父は私の存在さえも知りません。でも、私の名前は祖父の名前から貰って父がつけたものなんです。
そう言ったことや、父や母から(母にしても父や大伯母から聞いた話ですが)聞いたことや、たった一枚の写真から思いを馳せるだけなのですが・・・。そして父の母(祖母)は子供達(父達ですね)を祖父亡き後は一人で育てていましたが、祖父と同じ年齢・・・42歳で同じように部位は違いますが、やはり癌で亡くなりました。
 父方の祖父母が早逝だったのに対し、母方の祖父母は結構長生きでした。
母の両親は、祖父は80過ぎで病死、祖母は90過ぎまで大した病気にも罹ることなく、穏やかに去って逝きました。
例えは変かもしれませんが、父方祖父母はネクローシス(細胞が損傷や病気などで壊死してしまうこと)、母方の祖父母はアポトーシス(プログラム化された細胞死と言われ、私たちの身体の中で常時起こっている状態)、と言うイメージです。
私たちの身体でももちろんこう言う細胞の死を繰り返し、新しい細胞と入れ替わっているからこその生なのですが、不可逆な損傷(大きな怪我や病気など)で変化してしまった細胞もあります。
 そう言えば、私の身体には目に見えるネクローシスの痕(なのでしょうね?)とそこにもアポトーシスがあるんです。
それは子供の頃に負った大怪我の傷跡なのですが、まず欠損部分があります。
40年以上も前の事故にもかかわらず当時の最先端以上の治療を受けることができ、自家移植を受けています。
自家移植、つまり欠損部に自分の組織を移植するのですが、一部は上手くつき一部は無理でした。
医学的な見地は私にはよく解りませんが、元々の細胞がイエスと言ったところとノーと言ったところなのかな?なんて思います。
 
 それにしても、なぜそんな高度な医療を受けることができたのか?と言うと、搬送先から転送された先の病院で、今では整形外科とリハビリテーションで後にとても高名になられた先生に出会った幸運があったからです。
県職員だった伯父がたまたま知り合いであったと言うこともあったのですが、何としても私の足は切らないで(切断を宣告されていたので)、と言う母の懇願を受け容れてくださり(決して容易なことではなかったと思われます)、大学病院での繰り返しての手術となったのでした。
もちろん、治療に関しては私自身には殆ど記憶にありませんが、こう言った巡り合わせや家族・親族がいなければ今の私はいない、と言えます。
 そうして生き残った私の足は、前述したように欠損部があります。
そして表皮はケロイドです。
このケロイドが真っ白でカサカサで、でもそんなもんだ、と思っていました。
損傷部には痛覚のないところもあり、むこうずねということもあり小さな傷や皮下出血がいつの間にかできていたり、仕事中に(中学校に在職中にマラソン大会の炊き出しをしていて、ドラム缶で作った窯から飛びだした炎の先が服の上から掠めたんですが)やけどをしたことに気づかずに、しかも自分で何とかしようとしたがために長引かせてしまったり・・・と、そんなことを繰り返していたし、痛みを感じないから相当無理をしていることも自覚がなくて、歩けなくなるくらいの痙攣が起こって初めて病院に行ったり・・・とまあ私をぎゅっと凝縮したみたいな、足なのです。
 でも、この大切な足、子供の頃の私は・・・いえ、正直言うと結構最近まで、あまり好きではありませんでした。
悲しいことですが、いじめの対象にもなったし、できないことのコンプレックスの原因にもなっていました。
でも、できないことが自分では不思議で(本当はできることの方が不思議な状態なのですが)頑張ってもいたと思うのです。
もちろん外観にも大きな傷跡がありますし。ただ、みんなと同じでいたい、同じことがしたい、それが私の頑張りの元でした。
気がつけば自分の足を酷使し、いたわることを随分永い間忘れていました。
今から思うとそれでも私の足の細胞は生き続け、私を支え続けてくれたわけですが。
 幸い40歳近くになってからよくしてくださる先生とお逢いしたことで、足の状態も勿論万全ではないにしろ、かなり好い状態に守られていますし、私自身の自覚もあり、不具合に気づくようになりました。
出逢いとは本当に不思議なもので、必要なものは必ず残る。人にしても物にしても。そう思います。
 さて、話は変わりますが、今は亡き母方の祖父は、成人してからも会う度に、私の足をさすったりマッサージをしてくれました。
祖父の義父は柔道整復師のベテランだったそうで、売られた喧嘩は指一本で相手の関節をはずしてかわしたと言う逸話の持ち主でもあります。
そういった秘伝?を知っていたのかも知れませんが、とにかくいつも私の足をマッサージしてくれました。
私でもなかなか触れないのに(どこかネガティブな想いがずっとあるのでしょう)、私の人生でちゃんと触れてくれた数少ない人なのです。
祖母は朗らかな人で、家族を前に得意なハーモニカ演奏を聞かせてくれたり、それこそ「となりのトトロ」そのまんまに自宅の畑にトマト、きゅうり、とうもろこし等を作り、帰郷するといつもその場で選んでくれた物を齧ったりしたものです。
 
 自分の足、そして人生を思うとき、この身体をくれた、守ってくれた両親のことをまず思いますが、それ以外にも、本当にたくさんの愛情に守られ続けていることを強く感じます。
不具合でさえも、そう感じることに絶対必要だったもの、そう感じます。
人は、こんな風に気づかずに愛されて大切にされているものなのかもしれません。不可逆な傷を追っているにもかかわらず、生き残っている私の足に、ネクローシス(壊死的な細胞の死)のように逝った父方の祖父母と、アポトーシス(プログラムとしての細胞の死)のように長生きで世代交代を見守れた母方の祖父母を私は投影しているな、と思うのです。
そして、私自身の生き方にも。今まで選んできたこと・起こってきたことが、それがどんなことであっても、新しい出逢いやできごとをたくさん生み出しているように私は思うんです。
 それは、祖父母達や両親にも言えるかもしれません。早逝した祖父が、地元(兵庫)で暮らしていたら、もしかしたらもっと長生きだったのかもしれません。でもそれが祖父にとって幸せだったのか、と言うと話はまた違ってしまう気がします。
人生としては短く、思い残すこともたくさんあったのかも知れないのですが、東京での祖母との人生はきっと長さよりも素晴らしいことで彩られていたのではないでしょうか。まあ、そうでなければ少なくとも「あの」父はいなかったし、結果としては「この」私もいなかったのですが。あたりまえのことではあるのですが、よくそんなことを思うのです。
 祖父母は長生きして私たちとも逢いたかったかもしれないし、むしろそこまでは夢にも思わなかったのかもしれません、あまりにも短い人生の中では。ただ、逢ったことはなくても私の中では、ちゃんとおじいちゃん、おばあちゃん、として生きてくれている。そして気がつくと、いつの間にか祖父母の亡くなった年齢を何と5年も越えてしまいました。
こうなると私が目指すのは、母方の祖父母のように、元気で自分を大切に生きることです(^^)。
 こちらの祖父母は80近くまで何らかの仕事をしている人たちでしたから、これもすごい話ですね。私たちきょうだいの中には両方流れているんです、早逝の血と長生きの血が。人生の長さやいろんな状況は違いますが、祖父母達が今も私たちに贈り続けてくれるメッセージは、ただただ深い愛のようです。
日々が平和ではなかった時代が人生の多くを占めていた時代に生きた祖父母たちから両親へ、そして私たちに、流れ込むような愛を感じます。
私の中に流れるものを、私なりにどう育ててどう咲かせるか。どう伝えていくか。これも私の人生には大切な仕事かもしれません。それにはやはりたくさんの時間が必要なのかもしれないな、と思ったりもするのですが。
 身体の中の細胞のように、刻々と時代は動き、私自身も変化を遂げています、周りももちろん、同じように。そんな中で私はこれからどんな風に生きていくのか、まだ答えはありません。「今」を生きていくこと自体が、答えと言えば答えなのかもしれません。それは私だけではなく、それぞれどの人にとってもそうなのでしょう。そして、私たちを取り巻く環境や状況もまた、流れています。
流されていくことと、流れに乗ることの違いを今は感じてみたいのです。
自分の中を流れ続けている、赤い流れを感じながら。

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