もう、10年位前のことになりますが、祖母が最期の時をホスピスで過ごしました。
祖母は、家族の中で、ただ一人、すべてを受容してくれるような人でした。
小さい頃、庭の草木に触れさせてくれたのも、料理のお手伝いをさせてくれながら手作りの智恵を教えてくれたのも祖母でした。
私にとっては、気持ちの中で拠り所になってくれるような人でしたが、実家を出て20年も経つと、ほとんど話をすることもなくなっていました。
自己主張することのない祖母は、会うたびにただ微笑んでいて、帰りがけに何か食べ物を持たせてくれ、いつも「さよなら。」と言いました。
今思えば祖母は『もう自立してしまった孫に、今さら何をする必要もないだろう。』と、静かに私を手放していたのかなあと感じたりします。
それがまた私には有難かったのかもしれません。
でも私の心の中では、何でも受容してしまう祖母に、家族みんなで犠牲を強いている申し訳なさを感じていました。
祖母が治る見込みのない癌にかかっていると知らされても、当時の私は介護をしようとするわけでもなく、どう接していいのかわからずに戸惑い、さらには、そんな自分を情けなく感じていました。
祖母がホスピスに入った時、ちょうどお盆でしたので、帰省して、初めてそのホスピスに祖母を見舞いました。
郊外の大きな病院の最上階にあるホスピスの明るい窓からは、完成間近の瀬戸大橋が見えました。
「あれが瀬戸大橋やで。」などと風景を説明する父に、祖母は「家はどっちや?」と聞きました。
普段からあまりにも執着心のない祖母だったので、その言葉もさらりと聞き流してしまいましたが、きっと住み慣れた家や、その周りの音や風景の中に居たかったのでしょう。ホスピスのような恵まれた環境で最後の時を過ごせたのも、とても幸せなことだったろうと思いますが。
それから秋になり、秋が深まるにつれて、祖母は弱っていきました。
電話でそんな様子を聞くと、お別れの時がせまるのを感じ、当時の私はどうしていいのか、ますます分からなくなっていきました。
重たい葛藤で身動きが取れなくなり、祖母を見舞うために帰省することが出来なくなりました。
『こんな私が見舞っても、役にも立たない。邪魔になるし恥ずかしい。おばあちゃんとは気持ちが通じてるんだから、何も言わなくても分かってくれる。何もしなくても思いは伝わる。行く必要はない。どうせ話しもできないんだから。』
そんな言い訳が頭に渦巻きました。
とうとう、亡くなる1週間ほど前のこと、容態が変わったという連絡が来て、深夜の高速道路を急いで帰省しました。
あまり寝ないまま、そのホスピスに駆けつけると、祖母の容態は持ち直しました。
看護士さんや担当医の先生は、今まで殆ど姿を見せることがなかった、この近親者が誰でどういう状況なのか、会話から全てを察したようでした。
遠い信州に住んでいる孫で、前夜仕事を終えた後、車で飛んで来たらしいこと、祖母の病状や看護の仕方について、あまり知らないらしいこと、もしかしたら心にゆとりがなくて自分を責めていたことも伝わっていたかもしれませんね。
そして、休み明けには仕事に戻るため、車で信州まで帰っていくらしいこと。
看護士さんたちは、ちょっと毅然としたような態度で、祖母がひどく痛みを感じるので体に触れない方がいいことなどを伝えてくれました。
親しみを込めて触れることが、今の病状の中では痛みとして感じられてしまうという冷徹な事実が分かりました。
そして、看護のシステムや家族の待機の仕方についても教えてくださいました。
間もなく、担当医の先生から私一人が呼ばれました。
いったい何だろうとびくびくしながら付いて行くと、あの瀬戸大橋が見える、きれいな大きな窓のある休憩コーナーに案内してくださいました。
そこの椅子に腰掛けて丁寧に説明を始めてくださいました。
祖母の病状について、これまでに父や母がどのように一生懸命かかわってきているか、病院がやっていること。
そして、私に出来ることと、しなくてもいいことについて。これは、私が無理をして交通事故を起こしたりしないようにさせるための配慮だったのでしょう。
「お耳だけは最後までよく聞こえていますから、病室ではそのつもりでお話をしてくださいね。」という注意も印象的でした。
この言葉には、もうこれから祖母の気持ちを確かめる会話が出来なくなっていって、祖母がその気持ちを一人抱いたまま旅立つとしても、最後まで穏やかでいてほしいと願う、担当医の先生の真心が込められていたように感じます。
このホスピスでは、祖母の身体や心にとどまらず、家族と、家族それぞれの生活から心理に至るまで、祖母を取り巻き、祖母に影響を与えるものの全体をとらえて、その全体が祖母の死を温かく穏やかに受け入れてゆけるように、見守り支えて下さっていることが分かりました。
私は、感銘を受けながら、担当医の先生が話してくださったようにホスピスのスタッフや看護を続けている両親を信頼しようと思い、一度信州に戻りました。
それから1週間ほどして、深夜に父から電話が入りました。
祖母の呼吸がかなり荒いというのです。
「すぐ帰る。」と言うと、担当医の先生から、信州の孫は呼び寄せなくてもいいだろうと言われたと伝えられました。
祖母は、その2時間ほど後に亡くなりました。
のちに気付いたのですが、担当医の先生は、その時刻に私を呼べば、深夜の高速道路で無茶をして飛ばして事故を起こす可能性があると考えられたのではないでしょうか。どんなに急いでも間に合わないことが分かっていたのかも知れません。あるいは、持ち直すとしたら毎週のように呼び寄せて疲労させるのは望ましくないと思われたのかもしれません。
いずれにしても、深い配慮だったのだろうと思います。
これは両親から聞いた話なのですが、午前2時頃、祖母が亡くなったとき、一度自宅に帰られていた担当医の先生は、すぐに病室に戻って来てくださり、
「長い間、ご苦労様でした。
」
と、人生の労苦や癌の痛みを労うように、そして93年の永い人生を生き抜いた一人の人間への尊厳を込めるかのように、遺体に話しかけてくださったのだそうです。
早朝の病院を、車で出て行く祖母のうしろで、その先生は、深々とお辞儀をして見送ってくださったといいます。
母が、しみじみとその時の一部始終を語りました。
見てはいなかった私の瞼の奥にも、まるで見ていたかのように、いつまでもその光景が焼きついているように感じられます。
永い間守り育ててくれた祖母と、どうお別れしたらいいのか全く分からなかった私に、この担当医の先生とホスピスの皆さんが見せてくださったのは、こんなふうな、命と人生と死と向き合う姿でした。
今でもまだまだ未熟な、私なりにではありましたが、想い起こし、ここに綴らせていただきました。
お読みいただき、ありがとうございました。