先日、古くからの友人がとても悩んでいることを知りました。
その友人は、特に誰に助けを求めるでもなく、ただ一人で解決しようとしているようでした。
気になって友人のブログを覗いたところ、彼女は今は誰の手を借りることも望んでおらず、ただ時間が過ぎ、気持ちが落ち着くことを待っている、そんな内容が書かれていました。
でも、そんな状態だからこそ放っておけない。何かしたい。
でも、いたずらに彼女に触れても傷つけてしまう。
彼女の痛みにつながったのか、私の心が砕けそうなほど痛く、締め付けられました。
その時、自分にも、そんな時期があったことを思い出しました。
確かにその時の私は、正に、誰にも「触れて欲しくない」状態でした。
「辛かったね」と、優しく抱きしめようと身体に触れられることも、
「大変だったね」と、話題に触れられることも、
「良く頑張ったね」という雰囲気を作って、その空気に触れさせられることも、
全てが嫌で拒絶を続けていました。
とにかく、その辛さを他人と共有することができませんでした。
自分の心の中でなにが起こっているのか理解することもできず、ただ、他人との間に距離を作っていました。
私の痛みに気づかない人、なにが起こったのか知らない人、私よりもっと大きな痛みを抱えている人、そんな人たちと一緒にいるのが楽でした。
私の痛みに気づかないフリをして食事に誘ってくれる友人には、その優しさを思い、無理をして外出し、意味もなく笑顔を作りました。
「もう大丈夫よ」とみんなに言い、良く眠り、良く食べながら、時々、思い出させるものに触れては勝手に涙があふれ、行くあてのない怒りがこみ上げ、部屋から出ることが億劫になっていました。
きっと、今の彼女も、あのときの私と同じ状態。だから余計、触れることができない。
一方で。
だからこそ、わかる事もある。
抱きしめる腕を引っ込めた人の気持ち。
「大変だったね」と、ねぎらってくれる声に乗せられた想い。
「良く頑張った」と、認めようとしてくれた雰囲気の意味。
一緒に食事をしながら笑いあった奥にあったもの。
それ以外にも、ふと目があった時の優しい視線。「空気」としか言いようがない、穏やかで暖かいもの。
人が人を思う気持ち。
これが「祈り」なのかも知れない。
「祈り」なんて、初詣でするだけなんじゃないの?合格や成功やそういうものを神様にお願いするだけのものじゃないの?祈りって、要するに、神頼みのことでしょ??
でも、この、人が人のことを思う気持ちに名前をつけるとしたら?
やっぱり、祈り、という言葉しか思いつかない。
この穏やかで、暖かく、敬虔で美しい気持ち。パワフルで、芯の通った強い、しなやかな想い。
友人のブログを見るために立ち上げたPCの前で、困難に直面した友人を思いながら、たくさんの人の気持ちを感じることができました。
時間にして20分程度。
当時はわからなかったけど、私のために、たくさんの方が祈ってくれていたこと。私を思ってくれていたこと。やっと、気がつきました。
私は愛されている。
私を思ってくれる人がいる。
そのことに気づくことができた喜び。
私の中に次に訪れた気持ちは、ただただ「感謝」でした。
私を愛してくれてありがとう。
私を思ってくれてありがとう。
私を気遣ってくれてありがとう。
励ましてくれて、認めてくれて、ねぎらってくれて、笑顔でいてくれてありがとう。ありがとう。ありがとう。
熱く、穏やかな涙がたくさんあふれました。
その友人にも、そんな風にたくさんの人がいる。たくさんの人が彼女を大切に思っている。
だから、彼女は大丈夫。そんな風に思いながらPCを閉じました。
数週間後、危機的な状況を脱したとその彼女のブログで報告を受けました。
早速、連絡を取って一緒に遊びに行くつもりです。
2009年が明けました。
これを読んでくださっているあなたにとって、すばらしい年になりますよう、お祈りしております。
伊藤歌奈子のプロフィールへ>>>
2件のコメント
はじめまして。
カウンセリングサービスを愛読している者です。
今日の記事に涙してしまいました。
私も本当に同じことがありました。
友人たちの差し伸べる手を拒絶していた自分。
その手を掴んだ時の温かさをやっと知ることができた喜び。
多くの人が、私の助けを待っていてくれたありがたさ。
頑なだった自分の心。
温かい涙が流れています。
ありがとう。
感想をいただき、ありがとうございました。
人と人とのつながりに気がつき、受けいることの出来る喜びは、とても尊いと感じています。
ふらん。さんの助けを待っている方がいらっしゃるとのこと、ふらんさんの祈りが届いているのではないでしょうか。