無実であるということ

友人家族に誘われ、三つの家族でプロ野球の試合を見に行った。
中日ドラゴンズと読売ジャイアンツの試合で、この対戦カードの野球を観に行くの
は、高校生の時以来、実に25年ぶりのことになる。
久しぶりに球場で試合を見ながら、25年前のことを思い出していた。
その試合で忘れられない出来事があったからだ。
25年前の球場で僕が座っていた座席は、ドラゴンズファンを中心に、ジャイアン
ツの応援をしている観客がちらほら混ざっている場所だった。
少し離れたところに、熱心なドラゴンズファンのサラリーマンの仲間達がおり、前
のほうには、ジャイアンツの応援グッズを持った小学生くらいの少年の姿があった。
そしてその少年のもう少し前に、ジャイアンツの応援ユニホームを着た、ちょっと
怖い雰囲気のやんちゃな感じの青年が座っていた。
もちろん、サラリーマン達と少年とやんちゃそうなあんちゃんは、今日はじめて出
あう他人である。
球場では、ドラゴンズが優勢になれば、ドラゴンズファンは大きな歓声を出して盛
り上がり、ジャイアンツが活躍すればジャイアンツファンが声を上げる。
試合が進むにつれ、僕の視野からは、ドラゴンズの応援をするサラリーマンと、ジ
ャイアンツを応援する少年とやんちゃな感じのあんちゃんの対照的な反応がはっ
きり見えてきた。
試合はドラゴンズが有利に進んでいた。
ジャイアンツファンの少年が寂しそうに立っているのを、やんちゃな感じのあんち
ゃんが気づいたようだった。
攻守交代の間にトイレに立った彼は、少年の横を通りかかった時に、優しく頭をな
でて、励ましているのが目に入った。
同時に、周囲で最も目立っていたドラファンのサラリーマンの一軍を睨みつけてい
たのが印象的だった。
僕の視界からは見えても、サラリーマン達からは、少年もあんちゃんも見えていな
いようだった。
そうこうしているうちに、試合は進んで行き、いくつかのドラマがあって球場はど
んどん盛り上がり、ジャイアンツファンとドラゴンズファンは一喜一憂を繰り返し
ながら試合は終盤に向かって行った。
ついに、ドラゴンズが試合を決定付けるような大きなチャンスを得た。
僕の周囲も、一球一球に大きく歓声がわく。
その度にサラリーマンの一軍も大歓声で盛り上がる。
その度に、ジャイアンツを応援する少年は、体をこわばらせ元気がなくなっていっ
た。
そして、その度に、やんちゃそうなお兄ちゃんもまた後ろを振り返った。
少年には温かく、サラリーマン達には憎しみをこめて。
何がきっかけになったかは覚えていない。
突然、そのお兄ちゃんは立ち上がり、盛り上がっているサラリーマン達のところへ
突進して、その中の一人を殴った。
周囲は一時騒然となった。
僕はその一部始終を見ながら、とても複雑で悲しい気持ちになったのを強く覚えて
いる。
どんな理由があっても、暴力を振るうことは許されることではない。
その時、高校生だった僕も、そのことだけははっきり思っていた。
そして、その上で、思ったのだ。
罪はどこにあるのだろう、と。
今、思えば。
あの時の僕は、サラリーマン達、少年、あんちゃん、それぞれが感じていた感情を、
すべて感じていたように思う。
だからこそ、どうしようもない、行き場のない思いを抱いていたのだと思う。
こうしたことは、世の中にはどこにでもある。
野球の応援という小さな場所から、世界のどこかで必ず起こっている戦争まで。
その時、関わっている人々は、それぞれそれなりの理由で行動を起こしていて、だ
からこそ誰が悪いという事もない。
いっそ、はっきりした悪人がいてくれたらすっきりするのに。
誰もが悪くないのに、こうした争いが起こるのなら、それをなくす方法なんてどこ
にあるのだろう。
その頃から、ずっと僕はそんなことを考えていたような気がする。
そうした答えのない問いに、ひとつの光明が差したと感じたのは心理学を学び始め
た時だった。
心理学には「投影」という言葉がある。
簡単にいってしまえば、相手や状況の中に見えるものは、自分の中にあるものであ
り、他人は自分の心を写し出す鏡である、というものの見方だ。
誰かのことを嫌なやつと思えば、それは同じ嫌な部分を自分も持っているから嫌だ
と感じる。
誰かのことをとても優しいと思えば、それは同じ優しい部分を自分も持っているか
ら優しいと感じる。
人の中に見えるものは、自らが考えている自分自身の姿である、という見方は、僕
にとっては衝撃だった。
人の中に見えるものが、自分自身について考えていることだとしたら、他人へ下し
ている様々な判断を変える事ができれば、自分の心の中を変える事につながる。
人間とはいつもいつも、他人を批判しながらも、実は、その分、自分を批判し罪深
いと考えているのだ。
どんな嫌なことがあっても、相手にもしかたのない事情があったのかもしれないと
いう思いでみることができれば、その度に、自分自身を許し、そのことで自分を楽
にし、自ら自分を縛っている様々な制限を取っていって、自分を自由にしてくれる。
こうしたものの見方は、人間関係を円滑にしていくのに役に立つということを知っ
た。
繰り返しになるが、どんな理由でも暴力は許されるものではない。
ただ、どこかで、そんな暴力を目にしたとき、それを憎むのではなく、自分の中に
もそれはあることだと認識して、自分の中にある罪を許そうと思ってみる。
だれかの無実を認めることが、自分自身を無実にし、自由にしていくのだとしたら。
それを世界中の人が実践できたら、この世の中から争いがなくなるのではないか。
そう思うようになったのだ。
25年ぶりの中日・巨人戦を見ながら、そんなことを考えていた。
それは夢物語なのかもしれない。
けれど、かつてジョン・レノンが歌ったように、僕はそれを信じてみたい。
ただ、信じてみたい。
あらためて、そのことを思った一日だった。
この日の試合は中日が負けてしまったけれども、子どもたちはそんなことはおかま
いなしに、この日のイベントを満喫していた。
僕は、両チームをそれぞれ応援していた人たちどちらにもエールを贈りながら、帰
途についた。
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この記事を書いたカウンセラー

About Author

名古屋を軸に東京・大阪・福岡でカウンセリング・講座講師を担当。男女関係の修復を中心に、仕事、自己価値UP等幅広いジャンルを扱う。 「親しみやすさ・安心感」と「心理分析の鋭さ・問題解決の提案力」を兼ね備えると評され、年間300件以上、10年以上で5千件超のカウンセリング実績持つ実践派。

1件のコメント

  1. そうですね。
    自分自身を許して、いやしていくことで
    いろんな見方をできるようになり
    他人を許せる人間になれる、器の大きい人間になれるのでしょうね。
    日々、考えて、癒していきたいです。