最近、17年半飼っていた犬を亡くしました。
白いメスのトイプードルでした。
家族同様に接し、生後50日余りで我が家にやって来てから過ごした17年余りの時間は大きなものだったなぁと思います。
老犬は、少しづつ弱っていくと思っていましたが、犬も長生きするようになると、いろんな病を得るのですね。
その辺は、人間とまったく同じです。
15歳の時に、さほど暑いわけでもなかったのに室内に居て熱中症にかかったのをきっかけに、心臓が悪くなり、最後はてんかんの発作を繰り返すようになりました。
結局、今年に入ってから何度かの発作の後、心臓の方が持たなくなって息を引き取りました。
飼い主の腕の中で逝きましたから、これ以上はもう、どうしようもなかったなと思います。
火葬にして、庭のキンモクセイの木の下に埋めてやりました。
すぐに土に返っていくことでしょう。
動物は人間よりも寿命が短いゆえに、その生と死につぶさに関わることになりました。
“生”が良いもので”死”が悪いものだとは思いません。
死を考えることは、生を考えること。
どちらも2つでひとつです。
そんなことを思っていたら、かつて飼っていた犬のことが、記憶によみがえりました。
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜
私が小学校3年生の時の話です。
それまで、我が家では犬は飼ったことがありませんでした。
母が、「動物は先に死ぬ。死んだら可愛そうやから、飼うたらアカン。」
というのが、その理由でした。
確かに。
だから特別に犬を飼おうとは思わなかったし、友達の家で飼っているスピッツ(当時の流行の犬種です。
)を、遊びに行った時に触らせてもらうくらいで満足していました。
ところがある日、いつもの遊び場に行くとダンボールの中に子犬がいるのを見つけました。
可愛い顔をしています。
みんなで、代わる代わるに抱っこしたりして遊びました。
地面に置くと、歩くのですが、何だか歩き方がおかしい・・・。
片足を引きずっています。
ケガしてるのかな?
夕方になって、家に帰る時間になりました。
『この犬、どうしよう?』
『連れて帰ったら、お母ちゃんは怒るやろな。』
『そやけど、ケガしてるし、このままほっといたら死んでしまう。』
子どもなりに、幼い頭でいろいろ考えたのですよ。
『私が今より良い子になって、勉強して、お手伝いもして、犬の世話もちゃんとやったら飼ってくれるかもしれへん。』
そう思いました。
結局、意を決して連れて帰りました。
私:「お母ちゃん、ただいま。」
母:「おかえり。」・・・?「なんや?その犬は?」
私:「遊んでるところにおってん。」
母:「どないすんのん。」
私:「飼いたいねんけど・・・。」
母:「あきません!」
私:「ほんでも・・・。」
母:「犬は先に死ぬ。死んだら可愛そうやから、飼うたらアカン!」
お決まりの言葉を言われたあとは、泣き落としを試みたような気がします。
ガンとして聞き入れなかった母が、ハッとしたのは、やはり犬が足を引きずっているのに気が付いたからでした。
「こんなケガした犬、だれも飼わへんな。」
そんなやり取りをしている時に、父が帰って来ました。
父は元々動物好きです。
犬の足を見て、
「これはな、添え木をしてやらんとアカンわ。」
そう言って、手当てをしてくれました。
手当てした犬を捨てに行くわけにもいかず・・・
結局我が家で飼うことになりました。
飼い始めた子犬は、我が家の主役でした。
その頃ですから、もちろん外飼いです。
器用な父が庭に犬小屋を作ってくれましたが、当時の家には「縁の下」があり、そこが子犬のお気に入りの場所でした。
毎日のように、学校が終わると友達を連れて来て、犬と一緒に遊ぶのが楽しかったこと!
ところが、子どもの私は生き物を飼うことに対する自覚が欠けていました。
数年が経ち、中学生になる頃には学校のことが忙しくなったのを理由に、昔ほど世話をしなくなってしまったのです。
犬はとても従順な生き物です。
たまに遊んでやると、体全体で喜びを表して嬉しそうにしていましたが、相手にしてくれないとなると、シッポを下げて庭先から部屋の中をのぞいてションボリしていました。
結局、日頃の犬の世話は母になってしまったのです。
「だから、言わんこっちゃない!」
母にも叱られてましたね。
私が高校生になった頃、犬が病気になりました。
その頃は狂犬病の予防注射くらいで、ペットに混合ワクチンを打つような習慣はなかったように思います。
さすがにその時には玄関先に入れてやりましたが、私が学校に行っている間に息絶えてしまいました。
私が家に帰って来た時には、市の環境局に引き渡した後でした。
「もう、二度と犬は飼わへんよ!」
泣きながら言った母に、私も同意するしかありませんでした。
最後まで責任を持って飼う意識が乏しかった自分に罪悪感を感じていましたから。
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜
それから時は流れて数十年。
ノラ犬や捨て犬なんて、ほとんど見かけなくなりました。
あれ以来、犬を飼うことはなかったのですが、高齢になった父が脳こうそくで倒れて車いす生活になり、変化に乏しい暮らしをするようになって、フッと『犬を飼ってみたらどうだろう?』と、思いつきました。
“昔の経験を教訓にして、しっかり最後まで責任を持って飼う”
そう心に決めて飼った真っ白なトイ・プードルは、申し分なく父と母を癒してくれました。
飼い始めて2年後に父が亡くなったあとは、ずっと母の心の支えでした。
「あんたがおってくれたから、お父さんがおらんようになっても、ひとっつも淋しいことなかったわ。」と母に言わしめた犬。
その犬が亡くなって、母がペットロスにならないかと心配もしましたが、どうやら杞憂に終わりそうです。
相変わらず「動物は先に死ぬ。死んだら可愛そうやから、もう飼わへん。」
と、言っていますが
「飼わなければ良かった。」とは言いません。
ありのままに生きて、飼い主への愛情を表すことで、こちらもまた惜しみのない愛を注ぐことが出来ました。
犬は精一杯生きたことで、たくさんの喜びを飼い主に与えてくれました。
かつて飼っていた犬に、これだけのことはしてやれなかった思いはありますが、だからこそ今回は悔いなく見送ってやれたんだなって。
そう思います。
どちらのワンコにも、「ありがとう。」です。
もしかしたら私は生涯で、あと一度くらい犬を飼うことがあるかもしれませんが、出会えたことに感謝し、存分に愛して育ててやりたいと思っています。
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