小学3年生の時、初めて担任の先生が男性の教員となりました。
それまではずっと女性の教員だったので、新鮮味があり、
でもちょっと怖いかも…とも思っていました。
ある時、何かの理由でその担任の先生が怒って、
授業を放り出して教室を出て行ってしまいました。
すると翌日、先生がクラスの皆にプリントを配ってくれました。
そこには、授業が出来なかったことをどう思ったか?とか、
先生がどんなことを思って出て行ったか?とか、
これからどうしていったらいいと思うか?、
などという幾つかの設問がありました。
私は、どうして先生がクラスの全員に対して怒っているのか、
よく分かりませんでした。
確かに、クラスの子数名が授業中に騒いでいて
授業が進まなくなったんだな、とは思っていました。
でも、それは一部の人の話。
なぜ、関係のない自分も巻き込まれているのかは分からなかったのです。
今、振り返ってみると、
クラスにいる一部の子に対して子ども達同士で
「騒いじゃダメだよ!」とか「シー!」とか
注意をし合えるようにして欲しかったのかな、
と担任の先生の意図を読み取りますが、
当時はそんなことまで到底考えることは出来ませんでした。
なので私は、配られたプリントに思っていたことを正直に書きました。
「今、思っていることは、
授業がないなら早く家に帰ってゲームをしたいなぁと思っています。
」
当時の先生はこれを読んでどう思ったのか、
これまた分かりませんけれども、
それ以降、いくらクラスがうるさくても
先生が教室を出て行くことはありませんでした。
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私たちは、自分が感じていることや相手に分かってもらいたいことを
上手く伝えることができずに、お互いが困ってしまう
ということによく遭遇します。
人との関わりをもって生活している以上、仕方のないことかもしれません。
人類の長い歴史の中で言葉は人が築いてきた文化とともに発達してきました。
今でも新たな現代語が生まれたり、流行語があったりしますよね。
その全ては人とのコミュニケーションや情報共有のためにあるようです。
子どもの頃は、自分の考えていることと周りの人の考えていることに
それほど差異はないように感じていましたが、
大人になればなるほど、どれだけ親しい仲でも
丸ごと全てを知り尽くすのは難しいと感じるようになってきました。
そんなときに役立つのが相手とのコミュニケーションです。
特に日常会話では、情報共有よりも
お互いの気持ちや価値観の分かち合いに焦点が当たりますよね。
相手と自分に何か共通点があるとお互いに仲も縮まりやすいものです。
でも、私にとって人間関係が本当に面白いと思ったのは、
自分と全く異なる素質をもつ人と関わるようになってからでした。
共通点ばかりの人間関係は安心感を抱きますが、
どうもマンネリ化してしまうのです。
それよりも自分と違うところのある人とは、
お互いにみている世界の角度が違うので、
その違いを楽しむ方が断然ワクワク感を抱くのです。
親子でも兄弟でも、いつも身近にいる人でも、
お互いが全く同じではありませんよね。
似たようなところもあれば違うところもあること、
それが面白くもあり、時には問題になることもあります。
人はそれぞれ違って当たり前ということを知っておくと
人間関係に一層深みが増すかもしれませんね。
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