罪悪感や遠慮を感じて怒れない~知らず知らずの上から目線~

理不尽にきつい言葉を言ってくる人に対して腹が立つけれど、相手がかわいそうな人だと思うと本気で怒ることに罪悪感や遠慮を感じてしまう。自分の方が被害者なのに、なんでこんなふうに感じないといけないの?もやもやして、すっきりしない!

こんな場合、どうして罪悪感や遠慮を感じるのでしょうか?罪悪感や遠慮の下に隠れているのは、意外にも、「上から目線」であったりします。私の方が恵まれていてごめんなさい、それなのにあなたを助けてあげられなくてごめんなさい。そんな気持ちがあると、罪悪感を感じたり遠慮したりしてしまいます。

しかも、上から目線をごまかすかのように、無意識に下の立ち位置をとったりしてしまうので、状況がややこしくなってきます。このややこしさから抜け出すキーワードは「対等感覚」です。

◎リクエストを頂きました◎
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腹が立つのにかわいそうな人についてお聞きしたいです。姉と父は言葉がきつく家族の私にはとても冷たい印象を与える人です。母は「姉はシングルマザーで自分が辛いから人にきつくなるんだよ」といいます。また、父はアルコール依存症で劣等感に苦しんできた気の毒な人です。

こんな2人に全力で言い返したり立ち向かうことに遠慮してしまう気持ちがあり、大きな怒りをぶつけることに罪悪感のようなものも感じます。他の人に対しても怒った後で罪悪感を感じたり、ここまで言っては気の毒だと遠慮する気持ちになることがあります。

自分は被害者なのに罪悪感も感じてしまうことに納得いきません。
どういう心の構造なのでしょうか。どう対処すれば自分にもスッキリできるのでしょうか。よろしくお願いいたします。

(一部編集させていただいております。)
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リクエストをいただきありがとうございます。

理不尽にきついお父さんとお姉さん。腹が立つのは当たり前なのに、全力で怒ることに罪悪感や遠慮を感じる。

こういったケースは、意外と多いものです。一体どんな心理が背後に隠されているのでしょうか?

罪悪感や遠慮の下にある気持ち

罪悪感や遠慮の下にあるのは、実は、「私の方が恵まれていて申し訳ない」という気持ちや、「助けたいのにうまく助けられない」というような気持ちであったりします。

私の方があなたより良い状況にあってごめんなさい。あなたを助けられなくてごめんなさい。

こういう気持ちがあると、もろにぶつかって怒るということはしにくいですよね。

もろにぶつかる、ということは、対等でなければできないことです。怒れない、というのは、言い換えれば対等でない、ということでもあります。

隠されている上から目線、保障行為としての下の立ち位置

「助けたい」というのは、一見心優しい思いのように見えます。が、ここには知らず知らず「上から目線」が隠されているのです。私の方が優れているので、劣っているあなたを助けてあげたい、というような。

言葉にするととってもおこがましい考えのように見えますが、私たちは誰でもこのような気持ちを持つことがあります。こういう気持ちを持っていたとしてもごくごく普通のことです。

でも、このような気持ちは、自分ではあまり感じたくないものです。できれば「なかったこと」にしたいと思ったりします。そこで、「私はそんなおこがましい上から目線などしていません、ほら、あなたより下の立ち位置ですよ」と、上から目線をしてしまっていることを保障する(カバーする、隠す、なかったことにする)ために相手より下の立ち位置をとったりもするのです。

「下の立ち位置」というのは、相手の言動に反発できない、受け止めてしまう、という態度として現れます。

このような心理は無意識に起こることで、自分ではよくわからないものですが、ごく普通に起こる心理です。自分で感じる表面意識としては、「何かわからないけど受け身になっていてしんどいな」という感じであったりします。

加えて言えば、「かわいそう」という感覚にも「知らず知らずの上から目線」が隠されています。「かわいそうだから、こっちが引いてやらないと」という気持ちになりますし、これが保障行為としての下の立ち位置をとることにもつながっていきます。

そして、何だかとてももやもやしてしまいます。心のどこかで、「なんであんなヤツに一歩譲ってあげないといけないのよ!」というような気持ちもあったりするんですね。

上から目線になったり、相手に押されてしんどい下の立ち位置になったり、また上から目線になったり…

なんだかごちゃごちゃしていますよね。このごちゃごちゃ感は、「心理のワナにはまっている」時のものです。どこから抜け出せばいいのか見えなくなっていきます。また、こんな込み入った気持ちを感じているとしたら、自分のことがあまりいい人とは思えなくなってくるかもしれません。

けれども、このような複雑な気持ちというのは、人の心の本質ではありません。本質は、人とのつながりを大切にしたいと思う温かな心です。

さて、では、どうすればこのごちゃごちゃした感じから抜け出せるのでしょうか。

対等感覚を持つ=相手の生きる力を認める=自分の生きる力を認める

シンプルに言えば、上から目線をやめて対等になると、素直に怒りの感情を感じることができるようになります。感じた怒りをどう表現するか、ということはまた別に考える必要がありますが、ひとまず自分の中で「腹立つわ~!いい加減にしてよ!!」と罪悪感も遠慮もなく思えるだけでも、今よりはすっきりした気持ちになれると思います。

対等感覚を持つためには、相手のことを認めるということが必要になってきます。どう認めるかというと、「うまくいっていないところもあるけれど、この人は精一杯生きている」ということを認めるのです。そして、自分も同じように精一杯生きている、ということに目を向けてください。

相手を「かわいそうな人」と見るのではなく、自分と同じ生きる力を持った人、として見るんですね。不思議なのですが、「生きる力がある」という目で見てもらうと、人は内側から力がじわりと湧いてくるというところがあります。こちらが見方を変えると、あちらも変化してくる、というのが人間同士の影響力です。

対等感覚のある見方ができると、怒りというよりはコミュニケーションとして「その言い方は嫌な感じがする」などということをはっきりと伝えることができるようになってきます。同じ立ち位置で、困ることは困る、ということを伝えるという感覚になれば、罪悪感や遠慮はあまり感じなくなるのです。その結果相手との関係性が変化し、ラクな気持ちで対応できるようになります。

(完)

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