子供の頃から、母とは折り合いが良くなく、どちらかというと母のことはあまり好きではありませんでした。
大人になってからある占いがブームになったときに、「そういえば、子供の頃、祖父が持っていた占いの本を読んで、母とは相性が悪いから、上手く行かないのか」と思っていたのだった、と思い出すくらい。
母と私の間には壁があるようで、何かあっても厳しくて、優しいわけではないし、時には理不尽なことで叩かれたこともあるし、何より、どんな小さなことであっても相談をすると、「分からない」としか言わない母。
他の人にとってはそうではなく、頼れる存在らしい母。なのに、私には「分からない」としか言わない母。
私にとっては頼りなく、そして「分からない」と言われる度に寂しく、悲しく、他の家族に相談する気にもならないし、相談できる関係性でもないし、「私は何事も自分自身で決断して生きていかなければならない」と心に決めて、生きてきました。
地元を離れ、東京の大学に入り、友人の家に遊びに行ったりすると、皆、母親や家族との仲が良くて、うらやましく感じていました。
親元を離れた友人も、母親とはよく電話していたりして。
相変わらず、母とは仲良くもないし、母から滅多に電話がかかってくることもない。掛かってきても、半年から一年に一回くらい。電話がかかってきても、長く話すこともなく私は電話を切っていました。
母のこともそうだけど、何で私の家は、他の家みたいじゃないんだろう…。
そんな母との関係に変化の兆しがあったのは、私が社会に出て、鬱病になった時でした。
身体が動かなくなって、身体を引きずるようにして、遅刻したり休みを取りながら、仕事だけをなんとかこなして、週末は寝たきりの生活をしていた頃。
母には頼るまいと思っていたのに、限界を迎えていた私は、滅多にしない電話を母にして、「こんな状況でもう嫌だ」と怒りをぶつけたのだったと思います。今考えれば、母に怒るという形でしか甘えることができなかったのでしょうね。勿論、その時は、甘えているなんて思ってもみなかったけれど。
母は「すぐに東京に行く」と言ってくれました。
けれど、母の愛を受け取れない私は、母が仕事をそう簡単に休めないことを知っている私は、即座に断り、電話を切りました。
その週末、クール宅急便が一箱届きました。
段ボール箱いっぱいの、全て母の手作りのお惣菜。
ご飯も作れない、食べられない私を心配して、お惣菜をたくさん作って、送ってきてくれたのでした。
母に対して、初めてありがたいと思いました。感謝しました。
そしてそこから少しだけ、何かが変わっていったのだと思います。
最近の話になりますが、このところ色々な転機が自分に訪れて、でもどれも思ったほどの成果を出せず、人知れず、悩んでいました。
そんなとき、偶然、母に電話しないといけない用ができてしまって、久しぶりに母に電話しました。用件を話して、でも昔とは違い、親孝行も兼ねて母の話も聞いてあげて。
電話の最後に、相変わらず、ストレートな表現が苦手な私は、「色々思ったよりも上手くいかなくて辛い」と言う代わりに、母に、「私の幸せを祈っていて」と冗談めかして笑いながら最後に伝えました。
すると母は、「知らないかもしれないけど、いつもいつも幸せを祈ってる。子供の幸せを祈らない母親なんていない」と言って、涙ぐんだのでした。
ああ、私は母に愛されていたのだ、と改めて思いました。
私は今まで母を小さな存在にしてしまっていました。
母にそんな想いがあることを、ないことにしていました。
私の理想の形の愛でしか、私は受け取りたくなかったのかもしれない。そんなこと、心理学を学んでから何度も意識して改めて来たつもりだったのに、私は上手くできていなかったみたいです。
改めて母の想いを知って、愛を知って、今更ながら、もっと母を大切にしたいと思いました。
母が喜ぶこと、今度は何をしてあげようかな。