人間関係のパターンの中で、あなたが変えることができずに無力感を感じてしまったことが何度あったでしょうか?
自己破壊的行為から完全に自由になることに対して絶望感にとらわれたことはないでしょうか?
「私は絶対にそれを直すことができない」という思いに深く傷ついてパニックに陥ったことはないでしょうか?
もし、これらの思いを感じているなら、あなたの中に自分でも気づかぬうちに分厚い心の壁を作ってしまっている可能性があります。
今回は、私たちが知らず知らずに塗り固めてしまった心の壁を覗いてみながら、婚活中のジレンマを超えるヒントをお届けしたいと思います。
◎リクエストを頂きました◎
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私は婚活中の40歳です。
結婚を切実に考え始めたのは1年前で遅すぎると言われるのですが。
それまでは実りのないコンパなどを5年くらい続けていました。
リクエストは、結婚活動をしていながら結婚に幸せな夢を持てないんです。
男性と一緒にすることの何が幸せで楽しいのか分からない。
私は結婚に夢が持てないというよりも男性に幻想を抱けないといったほうがいいかもしれません。
初めから男性に期待することがありません。というか期待するほどイライラしてしまう。男性は希望通りには動いてくれず、期待は絶望になることが多いと感じています。
自分で書いていて、偏った感情だということは分かっているんですが、このジレンマをどのように抜けていったらいいのでしょうか?
(頂いた内容を一部編集させていただきました)
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●遠い日の誤解
私たちは愛からの分離を感じると、我を忘れるほどの深いパニックに陥ります。
それは遠い昔の幼い頃、昼寝から目覚めた時に、信頼していた誰か(父や母などの養育者)が見当たらなくて「自分は見捨てられたのではないか?」との勘違いから強い恐怖心に襲われて、泣きじゃくる子供にも似た感情なのかもしれません。
大人になった私たちが、こういったシチュエーションに立ち会ったなら、子供がなぜ泣きじゃくっているのか、親が子供の寝ている間に家の用事を済ましておこうとしたのかな、というようなことが想像つくのかもしれません。
でも、私たちの子供の頃のものすごく“怖かった”“不安だった”“淋しかった”という思いは、その時の大人の行動や思いに対して正確な理解を得るチャンスを欠いたまま、ツライ体験として残ってしまうこともあるのです。
●間違った思い込みが創り出してしまう問題を理解しよう
私たちが幸せになりたくてもなれない理由のひとつに、依存・被害者意識という意識があります。
子供のころの私たちは、誰でもが依存の段階からスタートしますが、誰か、あるいはまわりに依存するという意識なので、「~してもらえなかった」と感じるような出来事があった時、結果的に「自分がこうなったのは誰か(何か)のせいだ」という思いを残しがちな意識です。
「自分は大切にされていないのかもしれない」「愛されていないのかもしれない」
このような不安や怖れが証拠集めをしているうちに、いつの間にか本当のことのように思えてしまったり確信という感覚に変わってしまうのです。
私たちは一度「こういうもんなんだ!」と結論づけてしまうと、それ以外のことに気づかなかったり、受け入れられなくなってしまいます。
それは、観念という仕組みが「こういうものなんだ」という前提の上に新たな体験を積み重ねていくようになっているからなんです。
●ジレンマの真相
一度できてしまった観念は、処理済のデータとして潜在意識に刻まれていきます。一見、抑圧というかたちでなくなってしまったかのように忘れてしまうのですが、類似するシチュエーションがあった場合に、条件反射としてその時に身に付けた反応をそのまま繰り返してしまいます。
幼少期に経験する家族との人間関係は、私たちが社会に出て人間関係を育む時の基礎データとして息づきます。
例えば「男は頼りにならない。だから当てにしない」と強く思ったことがあったとすると、年頃になって恋や恋愛をする時期に、「可愛く甘えることができない」ジレンマに悩まされるなんてこともあるかもしれません。
恋愛は愛することの喜びを思い出す絶好のチャンスですが、自分なりに努力もしてうくいかなかった時、「ああやっぱり」と元の考えにしがみついてしまうこともあります。
「やっぱり、一人でいるほうがマシ!」
こんな考え方にしがみつきたくなった経験があるという方も少なくないでしょう。
そのような時に私たちが無意識に行っているのが、正当化と否認です。これが私たちにジレンマというさらに悩ましい状況をつくってしまいます。
正当化とは、「私は間違っていない」と正しさを結論づける心の動きです。
「これだけやってるんだから、文句ないでしょ?」というかたちで表現される場合もあります。
「悪いのは、間違っているのは相手の方だ」という依存時代の痛みが残っているので、未成熟なままの態度で相手を責めてしまいたくなるのです。
また、ある次元では、この被害者意識(傷ついた心)が誰かを責めたように、自分が加害者になることを怖れてそれを避けようとするために起こります。
かつて自分が欲しいものを与えてくれなかった誰かを憎んだり恨んだり責めたように、自分も同じようなことをしてしまえば、誰かに恨まれたり責められるだろうと思ってしまうわけです。
それを避けるためにいい子ちゃんのフリをしたり、正しさや正しくあることにしがみついてしまうのです。
否認とは、期待があるのに「期待していない」フリをしてしまったり、本当は大丈夫じゃないのに「大丈夫」といってしまったり。
本当は求めているのに「私には必要ない。なぜならば…」と自分の中に感じているものを「なかったこと」にしてしまったり、「認めない」心の動きをさしています。
否認や正当化は私たち自身の内面の世界の繋がりを遠ざけてしまうので、自分で自分がどうしたいのか、わからなくなってしまうこともあります。
どちらも自分が傷つかないように自己防衛が強く働いていることから引き起こされるものです。
傷つくのが怖いから、望むよりも最初からなかったことにしてしまおうという、心のブレーキが働いている状態なんです。
●男女関係に持ち込まれる問題
依存時代に抑圧された「~して欲しかったのにしてもらえなかった」という思いは、期待というかたちでやがて芽がでてくるようになります。
「こうしてくれて当然よね」という期待は、幼き頃に満たされなかったニーズが変形し、家族以外の供給源に向けられるようなかたちになって現れてくるのです(笑)
やがて私たちは、傷つくことを怖れながら、その人が愛を受取るのにふさわしい人かどうかを知るためにオーディションをはじめます。これはエゴの恰好のえさになります。
ここで多くの人が、ターゲットとなった人から「もらうこと」での過去のリベンジを図りますが、たいていうまくいきません。
私たちは大事なことをひとつ忘れてしまっているのです。
そう、私たち自身が与えることのできる側の大人になっているのです!
子供のころの傷を抱えたまま大人になった私たちは、出会いの中で相手を理解する必要性を感じていますが、完全に守りの体制でパートナー探しに臨むため、心は閉ざされたまま。
お互いに自分の中にある柔らかい部分を分かち合うことなく構えてしまうことも多いので、ご縁を育むことが難しくなっているのです。
これは、男女のどちらにも言えることなのですが、自分を守ることに忙しすぎて、自分のことを分かち合えるほどに自分自身を知らないからです。
痛みを避けるというのは誰でもが本能的に持っているものですが、痛みを避けているだけでは、真実の愛や本当の望みにたどり着くことはできません。
実は私たちが自分や人を愛さない限り、本当の意味で理解することなどできないのです。
●分離から結びつきへ
大切なのは幸せな幻想を持つ事ではなく、真実を通じてネガティブな幻想や誤解を手放していくことです。
特定の誰かに注ぎ、ともに育む愛は、喜ばしいものであることに違いはありません。
しかしながら、何気ない暮らしの中で示しあう愛や真心のこもった行いは、最愛の人にみせる愛情と同じ位に重要な行為になることだってあるのです。
もらおうとする愛から与える愛へ。
愛することを学ぶ決意をした時から、本来の自分を取り戻して行くプロセスがスタートします。
私たちが一番望んでいた愛に満ちた食卓へのカギは、本来の自分が持っている愛に気づき、与えようとする中で拓かれていくのです。