依存の状態にある時、評価や承認の基準が自分以外のまわりの人になってしまいます。
自分に自信が持てない分だけ不安を感じ、まわりの人から評価や承認を得るために顔色を伺うようになると同時に、まわりの人がどう見ているか?という人の目が気になるようになります。
見られることで嫌な感情を感じるために人の目が気になるという状態の時、多くの人は、不安と自信のなさというのを感じています。
自分に自信を持てない分だけ、自分以外の他の人からの承認や賞賛を求め、他の人からの承認や評価が得られないことで傷つきます。
言い換えると、他の人の承認や評価があって初めて、それをもって自己承認をすることができる状態と言えるでしょう。
誉めてもらえると自分の価値や魅力が感じられ、誉めてもらえないと自分に価値や魅力がないと感じられるといった具合に、自分の価値や魅力を決めるのが、他の人の評価次第になってしまうのです。
そして、他の人からの承認や評価を得るために我慢や犠牲をして、消耗してしまいます。
自分の価値や魅力が他の人次第で決まるとしたら、他の人の目が気になることも、そのために無理してしまうのも、当然といえば当然ですよね。
●依存時代の「人の目」と、痛みと誤解
こうしたパターンの多くは、依存の状態である子供時代の経験がルーツになっています。
子供は、両親やまわりの大人の顔色を伺います。
それは、両親やまわりの大人のことが大好きであるのと同時に、両親やまわりの大人の人達に依存をしなければ生きていけないからでもあります。
お母さんの機嫌を損なうとごはんが食べられないかもしれないし、お父さんに怒られると外に放り出されてしまうかもしれません。
また、社会性を養うためのしつけや教育を受ける際には、子供の気持ちや欲求から下す判断よりも、大人が下す判断に従わざるを得ないことが出てきます。
例えば、子供からすると、テレビを見ながらごはんを食べたいとか、ゲームをいっぱいしたいとか、自分の欲求に従ってやりたいことをしたいのですが、「ごはんの時はテレビを見てはいけません!」「宿題全部やったら1時間だけゲームをしてもいいよ」といったように、大人に制限されることってありますよね。
おとなしく素直に言うことを聞くと「えらいね~」「いい子だね」と誉められ、言うことを聞かないと怒られます。
自分ではなく、自分以外のまわりの大人の善悪や価値基準などの判断が自分の判断となったり、そうせざるを得なかったりするのです。
大人からすると、しつけや教育の一環で怒るのですが、子供は論理的には捉えませんし、理解もできません。
「怒ってる=悪いこと」「笑ってる=いいこと」というように、大人の人から自分に向けられた感情に反応し、理解するのです。
極端に言うと、「大人に愛されているか? or 愛されていないか?」というものだけに反応し、それを元にして理解をしていきます。
その理解の過程で「自分が悪い子だから愛されないんだ」というような誤った理解をしてしまうことで、自分に自信が持てなくなってしまったり、自分を悪い人間であるかのように思い込んでしまうのです。
こうした子供時代(依存時代)の痛みを癒し、誤解を解いていくことで自分に自信を持てるようになっていきます。
そうすると、他人からの承認や評価がなかったとしても、自尊心がある分だけ傷つくことが少なくなり、過度に人の目を気にする必要もなくなってきます。
人の目が気になるというのが問題になる時、気になるのは「どう見られているか?」という人の目ですが、実は、人の目があってもなくても、心はずっと不安と自信のなさを感じているのです。
必要以上に人の目が気にならなくなるためには、「どう見られているか?」よりも、いつも感じている不安や自信のなさ、依存時代に傷ついた痛みの部分と向き合うことが求められます。
>>>『人の目が気になる時(3)~投影が作り出す「人の目」~』へ続く