八方塞がりのように感じます。

相談者名
ぴの
こんにちは、ぴのと申します
現在大学一年生です

小3の時まで祖父母と同居していました
母と姑の仲は悪く、お互いの悪口を聞かされる、私自身も祖母の前では母の悪口を、母の前では…と、板挟みでした。一度母に「あんたはお母さんよりおばあちゃんの方が好きなんだね」と言われとてもショックを受けたのを覚えています。祖母が母を殴ってるのを見たこともあります。
色んなことが重なり、完璧主義、プライド高い、自分に自信がない、今の自分ができました。

大学も、最初はエンジン全開で好調だったのですが…途中から切れ、課題やらなきゃ→完璧にこなすの億劫→大学行くの嫌だとなってしまい、単位をいくつか落としました。
粘りたい気持ちもありますが、億劫に負け大学に行かない自分が想像できて辛いです。

また、私には大学生の兄がいるのですが、統合失調症であり、教養も全くなく、大学の卒業は難しいと感じています。通院をしていたのですが、今はやめてしまったようです。
病気が発覚した直後は統合失調症の人に言ってはいけない言葉などを調べて親にも教えていたのですが、全く守らないで兄を追い詰めるようなことばかり言っているのを聞いて、私ばかりなに頑張ってるんだろう、とふと思い今は見て見ぬフリをしています。こんな兄誰にも見られたくないです。恥ずかしいです。
兄妹揃ってこんなんで親に申し訳ないです。

大学に限らず働くことに関しても、辛いからとすぐに逃げる自分を想像すると、動けません。一人暮らしもしたいと感じていますが、その為に自分は努力できるのかと考えた時に、無理だと感じます。自分が頑張れない人だということが分かってるからです。今も、バイトが決まり近々出勤なのですが、逃げ出したい気分です。

でも心のどこかで、悩みを自分であえて作ってるような、自分を責めるのが好き?なような、そんな気持ちもある気がします。
関係あるかは分かりませんが、課題をやらなかったり学校に行かなかったりした時に、リストカットをすることがあります。自分は罰を受けたからもう大丈夫だ、と心が楽になるからです。

まとまりがない文で申し訳ないです。
相談は、とにかく楽になりたいです。
自分自身と家庭の問題で八方塞がりのように感じています。
お願いします。

カウンセラー
嶽きよみ
ぴのさん はじめまして。
今回 担当させていただきます、嶽きよみ と申します。

ぴのさんのご相談を読ませていただいて、本来のぴのさんが、とっても優しくて、愛がいっぱいあって、純粋で、そしてとってもまじめな方なんだなぁと感じました。

「とにかく楽になりたい」って、ぴのさんは書いてくださいましたね。

ぴのさんは、<何から>楽になりたい って感じがしますか?

私は、メールを読んでいるうち、ぴのさんの心の中にある 罪悪感 のような感情から楽になりたい、っていう言葉が出てきたのかなぁ、と感じました。

たとえば これまでの ぴのさんのパターンに、

「理想が見えたとしても、それが自分に出来るのか?というところを想像すると、「そんなの無理だ」という気持ちが出てきて、結局 動かない選択をしてしまう」

というのがあるとしますね。

そうすると、その後、ぴのさんには、どんな感情が出てきやすくなるでしょうか?

たとえば、自分には力がない「無力だ」、という感覚でしょうか?
もしそうだとしたら、無力な自分というのは、OKでしょうか? それとも ダメ でしょうか?

「罪悪感」というのは、自分には罪がある、と感じるいう感情です。
それは、過去に、出来なかった、しなかった、というような思いに対する ”嫌な感じ”から生まれてきます。

私たちは、いたずらをして叱られた、とか、うるさくして怒られた、とか、危ないことをして 叩かれた、など、

《悪いことをすると(罪を犯すと) 怒られる(罰を与えられる)》ということを、しつけから始まり、学校教育、社会生活、いろんな場面で教えられ、見たり聞いたりしてきますよね。

ですから、罪悪感を感じてしまうと、自動的に罰を与えられると感じてしまうところがあります。

もしもそれが本当の罪だとしたら、逮捕されたり、裁判にかけられたりするのでしょうけれど、他の誰かが罰してくれない時、私たちは、自分で自分を罰する、ということをしてしまうんですね。

ぴのさんは、

>関係あるかは分かりませんが、課題をやらなかったり学校に行かなかったりした時に、リストカットをすることがあります。自分は罰を受けたからもう大丈夫だ、と心が楽になるからです。

と書いてくださいましたね。

リストカットというのは、まさしく、自分に傷をつけて罰を与える、という行為ですよね。

私からすると、課題をやらなかったり学校に行かないことと、リストカットほどの大きな罰は、全然吊り合わない、と感じてしまいますが、
その時の ぴのさんにとっては、それに見合うほど 大きな罪を犯してしまった感覚がおありだったんじゃないかなあって思います。

その気持ちを思うと、ぴのさんは、どんなに一生懸命、ちゃんと生きようとしていらっしゃるんだろう、って思います。

ぴのさんが、真性の怠け者だったなら、きっとそんな罰を自分に与えることなんてせずに、
「やりたくないもーん」「行きたくないもーん」なんて感じで済ますことが出来たはずではないでしょうか。

でも、ぴのさんは、ものすごく悪いことをした感じになってしまわれるんじゃないかなと思うんです。

そんな、まじめさ、誠実さゆえの罪悪感が、子供の頃からずっと蓄積されてきていて…、
その蓄積された罪悪感を払拭するためには、ぴのさんのゴールや理想がどんどん高くなって行ってしまい…、
それに対して やらなければいけないことを考えると、「無理だ」という考えに至ってしまう…。

そんなことを想像しました。

>母と姑の仲は悪く、お互いの悪口を聞かされる、私自身も祖母の前では母の悪口を、母の前では…と、板挟みでした。

小さい女の子が、お母さんとおばあちゃんの間に入って、一体 何が出来たというのでしょうか?

私も同じような経験があるので、ぴのさんのその時の気持ちがなんとなくわかる気がしますが、
子供は、基本的に親を助けたいという想いがあるので、実際には何の力もなかったり、全く自分には関係のない問題でも、自分が悪いような感覚を感じて傷ついてしまうことが少なくありません。
ぴのさんは、ただ、ふたりとも好きで、大切だっただけななのに…、辛かったんじゃないでしょうか。

お兄さんのことに関しても、

>病気が発覚した直後は統合失調症の人に言ってはいけない言葉などを調べて親にも教えていたのですが、全く守らないで兄を追い詰めるようなことばかり言っているのを聞いて、私ばかりなに頑張ってるんだろう、とふと思い今は見て見ぬフリをしています。

ぴのさんが、その病気をどうにかすることは出来ないにしても、ぴのさんがその時に出来ることを一所懸命にされたんですよね。
でも、うまく行かなくて傷ついて、あきらめてしまって、もしかしたらその時も、助けられなかった想いをかかえてしまわれたのではないでしょうか。
そして、見て見ぬフリをしているご自分にも何か釈然としない気持ちがおありなのかな、って気がしました。

そんなふうに、これまで ぴのささんは、ご自分にたくさんのことを背負わせて来られたんじゃないかなって感じました。

その荷物を少しずつでもおろして行くために、カウンセリングが少しでもお役に立てたらって思います。

私たちは、みんなそうですが、「未完」の想いに対して、なかなか自分にOKを出すことが出来ないからです。

でも、家族のため、お兄さんのために、ぴのさんがしようとしたこと、トライしたことは、本当に優しさであり、愛の気持ちですよね。
それをちゃんと認めてあげる必要があると思うんです。

成功しなかったこと対して自分を責めるということは、次に何かを始めるためのエネルギーを奪っていることと同じです。

自分にエネルギーがない状態のまま「出来る」という感覚を持つことは、なかなか大変なことではないでしょうか。

私のおすすめとしては、まずは、これまでぴのさんが「出来たこと」ではなく、「しようとした」”想い”や”気持ち”に価値を与えてあげることからはじめてはどうかということです。

それはとっても美しいもののはずですが、私たちはそこを軽く見てしまいがちなんですね。

そして、理想的なゴールを見るよりも、出来るだけ「今」を見ることをおすすめしたいです。

例えば、マラソンで42キロを走り始める時だとしたら、ゴールが見えない間は、ずっと先のゴール地点よりも、まずは走っている周りの景色や、声援してくれている人の声に焦点をあてる、という感じです。

「課題」で言えば、仕上がったというゴールよりも、今から5分だけ課題に手を付ける、ということです。つまり、5分間 椅子に座っていられたら小さな成功です。

完璧主義の人は、途中でやめることに対して罪悪感を持ちやすいので、途中途中にゴールを作ることがおすすめなんですね。

一人で進むのが苦しい時は、カウンセラーを使って、一緒に進めばいいんです。

お伝えしたいことはたくさんありますが、まずは ぴのさんが、本当に優しくて、愛をたくさん持っている人だということに気づいてほしいなって思います。

応援しています。最後まで読んで下さってありがとう。

嶽きよみ

この記事を書いたカウンセラー

About Author

柔軟な視点で問題を捉え「人間関係」「自己表現」「セクシャリティ」に関する悩みを多く扱う。 特に、現役で自身のビジネスも続けていることから、やりたいことを見つける、夢を叶える、など自己実現のサポートを得意としている。 「見た目の印象とは違い、声に癒される」との声が多く寄せられている。