人が怖くて恋愛できません。

相談者名
おあしす
こんにちは。おあしすと申します。

心理学の世界では、「自分が変われば相手も変わる」とよく言われていますが、本当にそんなことはあるのでしょうか?

私は、父が自分勝手で気分屋の人で、いつも父を怒らせないように、細心の注意を払って生活をしてきました。(暴力をふるわれたことはありませんが、大声でよくどなられていました。)気をきかせて何かをすれば「余計なことをするな」と怒られて、何もせずに大人しくしていれば「気がきかないやつだ」となじられました。

恋愛にかぎらず人間関係ではそういった面が繰り返されているような気がします。友人や上司や、あらゆる人の顔色をうかがうクセがあり、疲れます。1人でいた方がよっぽど気楽で落ち着きます。でも、1人でいてはいけない、人と触れ合わなければ、という焦りもあります。

30歳をすぎ、そろそろ恋愛や結婚をしなければという思いが強くなってきました。とても焦りの気持ちが強くなってきて、日々何かをしなければ、恋愛や結婚に向けて行動しなければと焦っています。

しかし、そういう気持ちとは裏腹に、人と深く関わりたくないという気持ちがあります。そのジレンマでまた悩み、体調も優れません。

それに、昔から好きな人が出来てまず思うのは、「この人は自分の父親みたいな人ではないだろうか?」という疑いの気持ちです。自分の父親のように自分勝手な人とは結婚しても幸せになれない。自分の母親のように夫の悪口を子供に聞かせるような人生にはなりたくない。自分の子供には自分のような子供時代を送らせたくない。そういう思いから、男性をチェックする目が厳しくなっていると思います。そして、少しでも父親のようなそぶり(私の受け止め方、感じ方の問題だとおもいますが)が見えると、ガッカリして、落ち込んでしまいます。(大声でどなられたりなどといったことはありません。疲れている時に少し無口になっているとかその程度でもとても怖く精神的に不安定になってしまいます)それでも好きだという思いも捨てきれず、悩んで悩んで悩んでいるうちに体調を崩し、自分から離れるといった繰り返しで今まできました。

・「自分が変われば相手も(環境も)変わる」
・「人の性格は一生治らない」

どちらもよく聞くフレーズです。

もうどうしていいのかわかりません。

カウンセラー
中原謙一
おあしすさん、始めまして
私は中原謙一と申します。
宜しくお願いいたします。

さて、結論から言いますと、
・「自分が変われば相手も(環境も)変わる」
・「人の性格は一生治らない」
このどちらも正しい意見だといえます。

ただ、正確に言うのであれば、
・「自分以外の何か(相手や環境)を変えるより、自分を変える方が簡単である」
・「人の性格は一生治らない部分と、直せる部分とある」
となるでしょう。

まず性格についてですが、これはまた聞きなので正確な内容とはいえないのですが、人間の持つ性格には大きく分けて2つのものがある、といわれています。
一つは、先天的性格(遺伝的性格)です。
これは遺伝によって引き継がれた性格の部分ですね。
もちろん遺伝ですから、この部分は何をどうやっても変えることは難しいといえます。
もう一つは、後天的性格(環境要因的性格)です。
これは生後の成長期における環境的要因や人間関係によって形成される性格のことを現します。

そして、大体この比率が先天的性格4に対して、後天的性格6の割合だといわれています。

おあしすさんがもし、「自分の性格は変えられない」と感じているとすれば、それは先天的性格の部分に対してそう感じているのかもしれません。
ただし、先天的性格の中にも「変えられる」ものがあると私は感じています。

たとえば、「神経質」という性格を持っていたとします。
この「神経質」というのは、後天的に神経質になったというより、もともとの性格である可能性が高いでしょう。
そこで、この「神経質」という性格を「繊細な自分」と取るのか「臆病な自分」と取るのかで、ずいぶん扱い方が違うように感じないでしょうか?
さらに、この「神経質な自分」をポジティブに捉えるのか、ネガティブに捉えるのかによっても、「神経質」という性格と感じ方がずいぶんと変わってくるんですよね。

つまり、先天的、遺伝的性格を変えることは非常に難しいことですが、その先天的、遺伝的性格を自分にとってプラスに捉えられるかどうかは、後天的性格によって可能となるわけです。

おあしすさんの場合、どこか根本的に自分の存在そのものを否定しているように私は感じられてしまうんです。
自分の存在の否定、これ自体が、自分の遺伝的性格の否定、と置き換えてもいいかもしれません。

そうすると、後天的、環境的要因をよりよく変えられないのではなく、後天的、環境的要因を絶えず良くない状態に自分を追い込むことで、自分の性格を否定し続けられるわけです。

おあしすさんにとって、この「自分の性格の否定」が、結果として家族、ここではお父様の名前が出ていますが、たとえばお父様に対する怒り、もしくは復讐心とも考えられるわけです。

さらに、ここで質問ですが、自分勝手で気分野のお父様ですが、このようなお父様がコミュニケーションが上手だと思うでしょうか?
私は思わないんですよね。
おそらくお父様は、社会生活において、ずいぶんと回りを気にして、自分を隠して、毎日おびえていたのではないでしょうか?
さらに、そのような状態で、自分の溜まった感情をぶつけられる、吐き出すことができる場所が、お父様にとって家族しかいなかったのかもしれませんね。
まあ、吐き出されたおあしすさんにとってはいい迷惑だったでしょうね。

ここでもう一つ質問です。
おあしすさんが人と係ろうとするとき、ずいぶんと回りを気にして、自分を隠して、毎日おびえている、というようなことはありませんよね。

気がついてくださいね。

お父様とおあしすさん、実は非常に良く似ているんですよ。

さて、ここでさらに質問です。
このお父様とよく似ている部分は遺伝的要因でしょうか、環境的要因でしょうか?

正解は、環境的要因ですね。
想像してみてください。
お父様も、いまのおあしすさんが社会に感じているのと同じように感じて生活していたとしたら、今のおあしすさんと殆ど変わらない環境が出来上がるわけですよね。
さらにお父様は、それでも人と係らないわけにはいかなかった、つまり、かなり無理をして人と係っていたから、家庭内であのような態度しか取れなくなってしまったのかもしれません。
その理由は、家族のために、でしょうね。

さて、ここからが提案ですが、おあしすさんがお父様のことをどう思おうが、それは自由です。
許したくないなら許したくないでいいでしょう。
しかし、今のおあしすさんは「お父様のせいで」自分がこうなっていると、自分自身でできることを放棄してしまっています。
それこそ、お父様とそっくりなことをしているわけですよね。
お父様は結構他人のせいにしていませんでしたか?
もしそうであれば、まず「誰かのせいで」「何かのせいで」自分は幸せでない、幸せになれない、と不の環境的要因を作り出さないことです。
そのうえで、おあしすさんが「幸せになる」ために自分をどう扱うかをしっかりと見つめなおすことでしょう。

ただし、これには条件があります。
それは、おあしすさんの「意欲」にかかっています。
より良い自分に変わりたい。
成長したい。
幸せになる。
などなど、おあしすさんが心から自分を「そうしたい」と願う力、意欲こそが、この状態を抜ける鍵になるわけです。

できるかどうか、それはやってみないとわかりません。
そして、一人でやれともいいません。
もし本気で「変わる」意欲を持ちたいと感じられるのであれば、私たちを含めて、おあしすさんを愛しているすべての人が、協力を惜しまないでしょう。
「やってみる」ことが始まりの一歩ですよ。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

オアシスさんが幸せになるための参考に少しでもなることができれば、幸いです。

ありがとうございました。

中原謙一

この記事を書いたカウンセラー

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