明治末期から大正初期に起こった「千里眼事件」
今回は、現代の科学では解明されていない”不思議な現象”を科学的に解明しようとする超心理学のお話をします。
日本超心理学会では、超心理学について「未だに物理的には説明がつかない、心と物、あるいは心同士の相互作用を科学的な方法で探究する研究分野」と位置付けています。
特に今回は、映画や小説などで話題となった作品「リング」にも関係する明治末期から大正初期に起こった「千里眼事件」について、その解明に尽力した、超心理学の先駆的人物の1人、東京帝国大学助教授で心理学者である福来友吉を中心にしてお話をします。
決してキワモノのお話ではなく、史実に基づいてお話しますので、当時の学者たちの真実を究明しようとする姿勢を感じ取っていただいたり、人間に秘められた未知なる能力に思いをはせていただいたりしてお読みいただければと思います。]
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夏になると怪談話や不思議な体験談がもてはやされるようになります。
この、うだるような暑さを少しでも涼しくすることがその目的かもしれません。
しかし、一方で現代の科学では解明されていないこのような”不思議な現象”を科学的に解明しようとする心理学の領域があります。
それは「超心理学」という分野です。
日本超心理学会によれば、
「超心理学とは、未だに物理的には説明がつかない、心と物、あるいは心同士の相互作用を科学的な方法で探究する研究分野」
と謳われており、その研究対象はテレパシー、透視、未来予知など、外界の情報を通常の感覚器官を超えて人間が知覚したとみられる現象(ESP)、念写や念動力など通常の運動器官を超えて人間が外界に働きかけたと見られる現象(PK)、生まれ変わり、幽霊や霊魂に関する現象(サバイバル)の3分野に分けられています。
心理学は、人が何かを認知すること(例えば見る、聞く)から始まって、人の行動全般を取り扱う学問です。そういった意味では、人がかかわる未知なる現象も、心理学の研究分野になるのです。
また、心理学は人の研究ですから、経済学、哲学、脳科学や医学、物理学、化学、生物学、遺伝学など学際的な領域を多く持つ学問分野でもあります。
大昔はそうではなかった時代もありますが、現代心理学は様々な学問分野と連携し、補完し合うことから、科学的な客観性のもとに他の科学領域と同様に実験的有意性(意味がある)に基づいて話をしています。
超心理学分野においても同様で、様々な未知の現象に対して実験的なアプローチが数多く行われています。
随分前に小説や映画、テレビドラマでヒットした作品に「リング」がありました。
映画では「来る、きっと来る・・・」という独特の音楽や、怨念を抱いた「貞子」が井戸から這い出てテレビのブラウン管から現実の世界に現れるシーンがとても怖く、印象的でした。
この貞子のモデルとなったのは「高橋貞子」という岡山県出身の実在の人物だと言われています。
高橋貞子は実際に当時の東京帝国大学助教授だった心理学者福来友吉のもとで大正初期に透視や念写の被験者になっています。
日本の超心理学の先駆者の1人である福来友吉は、明治32年に帝国大学(のちの東京帝国大学)の哲学科を卒業しました。当時の心理学は哲学科の中で心理学専修という位置づけになっていました。福来はその後、大学院に進学し、催眠状態の心理学的研究を行い、博士号を取得しています。
明治42年、前京都帝国大学総長木下広次が「透見法」(透視)を行う熊本在住の御船千鶴子から不思議な治療を受け、そのことが新聞記事として掲載されたことをきっかけに、「千里眼事件」の幕が切って落とされました。
千鶴子は義兄の清原猛雄から催眠術を施され、透視ができるとの暗示を与えられ、その後修練してその能力を高めたとされています。
千鶴子は、日露戦争時に撃沈された軍艦「常陸丸」に第六師団がたまたま乗っていなかったことを透視したり、福岡県大牟田市にある三池炭鉱万田坑の鉱脈を透視で発見したりしたと言われています。また、千鶴子は人体を透視して病気を診断したり、手かざしによる治療を試みたりしていたようです。
木下は、京都帝国大学医科大学教授で精神医学者であった今村新吉博士に千鶴子の能力の研究を勧めました。
また、福来は教え子である熊本工業学校の高橋正熊から優れた透視能力を発揮して「千里眼」と言われている御船千鶴子がいるということと、千鶴子に対して高橋が行った簡単な実験結果の話を聞いていました。福来のもとに、当時千鶴子の義兄が勤めていた旧制熊本県立中学済々黌の井芹経平校長か訪ね、レベルの高い実験を勧めたため福来も実験に参加する事になりました。
明治43年2月、郵送による透視の予備実験が行われました。密閉された名刺に書かれた文字の透視を行う実験で、7枚の名刺を2日間かかって透視し、完全適中3、一部の文字を誤るなどした不完全適中4という結果を得ました。福来はこの結果を良好と受け止め、熊本へ出張して実験を行うことにしました。
明治43年4月、福来は今村とともに熊本を訪問し、本格的実験と能力向上の指導を始めました。この結果、二人は千鶴子に透視能力があることを確信し、学会にも報告を行いました。
しかし、千鶴子の透視には、疑いを抱かせる余地がありました。それは、人前では精神統一ができず、別室で、一人で透視を行わなければならないということでした。
そこで福来は透視物の封を厳重にすることで疑念が生じないようにしました。
従来は透視物を紙に入れ糊付けして封をしていたものを、鉛管に入れ両端をはんだ付けすることにしたのです。
明治43年9月、福来と今村は京都で千鶴子の公開実験を行いました。実験4日目の第1回目の実験では、京都帝国大学の実験者が透視物を鉛管に入れ、はんだ付けして封印しましたが、この作製作業を見ているときから千鶴子は不安そうで、透視のために用意された別室入りましたが透視ができませんでした。
同じく明治43年9月、東京で学者や新聞記者を集めた3回の公開実験が行われました。
第1回目の実験は、学者を対象に行われたものでした。
東京帝国大学元総長で物理学者の山川健次郎博士が用意した、鉛管に封入した3文字を記した紙片を用い、千鶴子は「盗丸射」と透視しました。千鶴子が透視した鉛管を開けてみると、「盗丸射」と書かれた紙片が出てきましたが、山川が準備したものには、そのようなものありませんでした。
千鶴子に事情を訊くと、山川の準備した鉛管は透視できなかったので、練習のため福来から渡されていた鉛管を代わりに透視したとの話でした。
この時の透視物取り替えは、批判的な者たちの疑惑を招きました。
翌日の第2回目の実験は、記者たちを前にして行われました。
この第2回目の実験は成功しました。
第3回目の実験は、再び学者を対象に行われました。
学者達がそれぞれ3字ずつ記した紙片から無作為に選んだ1枚を、錫製の小さな壷に入れ、それを更に箱に入れて紐で縛り、結び目に認印を押したこよりで結びました。
千鶴子が透視した結果は、「道徳天」の3字で、的中しました。
千鶴子が起こした千里眼」ブームに乗って自薦他薦の自称超能力者が数多く名乗り出ましたが、その中で福来の最も強い関心を引いたのは香川県に住んでいた長尾郁子でした。
郁子の能力は、当初御船千鶴子に劣っていましたが、対面して透視ができたので、疑惑を受けにくい透視方法でした。
郁子の透視実験は、福来が未現像の写真乾板を送りそれを郁子が透視し、透視結果を出してもらってから現像するという方法を取り、不正疑惑を避けようとしたものでした。
郁子は数回の実験で透視を的中させ、加えて写真乾板が感光していたことから、福来は念写の可能性も考え始めました。そして、実験を繰り返すうちにだんだん念写がはっきりし、また複雑な文字なども念写できるようになり、福来は数多くの実験結果を学会に発表しました。
その後、山川がリーダーとなって透視と念写の実験に郁子のもとを訪れ、福来がオブザーバーとして立ち会うことになりました。しかし郁子は少しでも疑われたり邪心があったりすれば精神統一ができないと、予め作った問題をまず準備室に置き、全員が実験室に集まった後、郁子の許可を得て持ち込むこと、外部からの問題を持ち込む際には封印や糊付をしないこと、準備室で書く時、書き直しはしないこと、写真乾板に念写する文字は郁子が指定し、一夜前に申し込むことという実験条件をつけました。
実験では、不正開封発見のため郁子側に内密に入れた鋼鉄線がなくなる、封印が破られているなど不正手段を使ったと思われる状況がありましたが、不正開封発見のための方策を郁子側に内密にしていたため公表できず、ひとまず「成功」として報道されました。
また、その後明治44年1月に行なわれた実験で山川側が写真乾板を入れ忘れるなどの手違いが生じ、山川側が謝罪して何とか実験を続けることになりましたが、郁子の超能力を疑う学者の中から一方的に「透視と念写は詐欺である」とした報道陣に対する発表があり、郁子側は以後の実験を全く拒否しました。
千鶴子は長尾郁子の念写について批判する記事を見て失望と怒りを感じ、義兄に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ち、明治44年1月に服毒自殺を図って死亡しました(この批判が自殺の原因かどうかは定かではありません)。
また、長尾郁子は同年2月26日に肺炎により死亡しました。
大正2年、福来は知人を通じて高橋貞子を紹介され、福来のもとで実験の行われることとなりました。
この実験では、貞子は精神統一の後、別人格が宿ったかのような言動で透視や念写を行いました。この点は千鶴子や郁子と異なる大きな特徴であり、福来はこの別人格を「霊格」と呼びました。
大正2年3月2日の最初の実験では、福来が持参した写真乾板に念写を行うことが試みられましたが、念写は失敗に終わりました。
その後、4月27日には第2回目、5月10日には第3回目の実験が行われ、福来が用意して封をしていた乾板への念写が試みられました。
その結果、第2回目の実験では貞子は「妙法」の字を念写し、第3回目の実験では、「天」の1文字と自分の指3本の念写を成功させました。
福来はこれらの実験結果で、貞子の透視や念写能力を事実と確信しました。
福来はその後、大正2年8月に「透視は事実である。念写もまた事実である」との説を唱えた『透視と念写』を刊行しましたが、東京帝国大学の学長であった上田萬年から呼ばれ「東大教授として、内容的に好ましくない行為」として警告を受け、その信念を曲げなかったため東京帝国大学を休職させられた後、大正4年に退職しました。
何を信じるか、何を疑うかは人それぞれです。
何が正しくて、何が間違っているかということは、この結果からでは明らかにできないのではないかと思います。
ただ、学者である福来も今村も透視や念写が実在することを信じていたことは明白でしょう。
あるいは、厳しい見方をしていた山川も「信じさせてよ」という強い思いがあったのだと思います。
「今の科学で証明できないことは認められない」という立場は、科学者にとってその魂を売り渡したに等しい考え方です。
科学技術は発展しています。
それに伴って今までわからなかったことが解明され、真実へと近づいていくのです。
超心理学の取り扱う事象は、やがてシロはシロとして「存在する」と解明されていくでしょう。
しかし、「灰色」や「クロ」は悪魔の証明と呼ばれる、不可能に限りなく近い「無いことの証明」として残り続けるのではないかと思います。
参考文献
日本超心理学会ホームページ
本の万華鏡(国立国会図書館)
ウィキペディア
透視と念写(福来友吉 著)
心理学史(西川泰夫,高砂美樹著 放送大学教育振興会)
東大心理学研究室の歴史(東京大学大学院人文社会系研究科)
医学生ニュース(米の山病院)
(完)