私が生まれ育った家庭というのは、両親が自宅の一階で洋食のお店を営んでいて、
二階が住居、という環境だったのですが、
普段私が食する三食のご飯というと、父親がお店で作ってくれたハンバーグだとか、
エビフライだとか、トンカツだったわけです。
友達やそのお母さんからは、「いつも美味しいものばかり食べられて、良いわね〜。」
と、羨ましがられたりしたものですが、
普段の食事は1人で食べることがほとんどだったので、
私は友達の家で夕食をごちそうになったりすると、
大人数で食べる食事がワイワイ賑やかで楽しくて、
『こっちの方が羨ましいじゃないか。』などと思ったりしたものでした。
そんな環境で育ったので、ご飯を作る人は父親、というイメージが強かったのですが、
母親の方が上手で美味しいメニュー、というものもちゃんと、存在しておりました。
それは、【煮物】だったのですが、ハンバーグなどのメインのおかずの横に副菜として、
煮物だとか和食のお惣菜だとかを作って出してくれていたのです。
子供だった当時は、メインのおかずに目を奪われ、地味な煮物やお惣菜には正直
大した価値を見出すことはなく、時は流れていきました。
そして私自身が母親となり、煮物を作る側の立場になった時、
レシピ本を見たり料理番組を参考にして、色々と作ってはみるのですが、
いざとなると、いわゆる『おふくろの味』的な、
懐かしくて美味しい味を再現することが出来ないのです。
だったらその場で母に電話でもして、作り方のコツでも聞けば良かったのですが、
「そんなことも知らないの?」「ちゃんと教えてから嫁に出せば良かった。恥ずかしいわ。」
などと、小言を言われるのがオチだと思っていた私には、
母親に教えを乞う、なんていう選択肢はありませんでした。
ヒステリックだったり、不機嫌になると無視されたり、
否定的な意見ばかり言う母親との接触を極力避けていたので、
仲良く料理を作るとか、おふくろの味を伝授してもらう機会を作ろうとはしなかったですし、
今から10年前のある朝に母は突然倒れ、意識が回復しないまま
あっさりと亡くなってしまった、ということもあって、
煮物の作り方を教わらぬままになってしまったのです。
それでも、当時の味の記憶を辿って、思い出し思い出し作ってみるのですが、何かが違う・・・。
味もしみ込んでいかないし、満足いく味にたどり着くことは残念ながらなく、
なかば諦めていたある日のこと。
数年前から仲良くさせてもらっているご近所のAさんから煮物のおすそ分けを
頂いたのですが、その煮物を何の気なしに食べてみてびっくり!
母親が作った煮物の味にとてもよく似ていたのです。
後で話を聞いてみると、それはAさんのお母さま(60代後半)が作ったもので、
またよくよく聞いてみると、故郷が長野県の同じ地区出身だった、
ということが分かったのです。
かつおだしベースで、生姜を多めに効かせてあって、甘さ控えめ、
という塩梅が、本当によく似ていたのです。
もうこの味は食べることが出来ないだろうな、と思っていたので、
思いがけず再び巡り会えたことに感激し、懐かしく、
温かい気持ちに包まれている私がいました。
メインのおかずでもなく、地味で印象にも残っていなかった煮物でしたし、
『いつでも教わることが出来るから』と、作り方を教わろうと積極的でもなかったわけで、
おふくろの味が再現出来なくてもある意味、自業自得な部分もあったと思うんですね。
母親が作る料理って、その味を通して、当時の思い出が蘇ってくることがセットでくっ付いてくるもので、
仲たがいしていた頃には、良い思い出よりも、悪い思い出が蘇ってきそうな気がして、
教えてもらいたい、と思えない自分がいたのかもしれないな、と思うのです。
そして母が亡くなって10年経ち、今なら素直な気持ちで、お母さんの煮物も作ることが出来る。
そんなタイミングだったから、Aさんと、そのお母さまとの出会いもプレゼントされたのかな?
などと思ったりするのです。
数多くの煮物や和食のお惣菜を作ってくれた母でしたが、今一番食べたいのが、
【芋がらの煮物】です。芋がら、皆さんご存知でしょうか?
芋がらって、里芋の茎の外皮を剥いで天日で干したものなんですが、
見た目が茶色に汚れた荷造り用の紐ひもみたいで、『これ、どうやって食べるの?!』って
言いたくなるような外観なんですね。
しかしこれを水で戻してあく抜きし、油揚げと一緒に煮物にすると絶品で、
食べだすと止まらないくらい美味しいのです。
近所にある、地元野菜が手に入る直売所に並ぶ季節になったら、Aさんのお母さんに作り方を教わって、
【お母さんの煮物】をぜひ、作ってみたいと思う今日この頃なのです。
そしてそれを小5の娘が食べたら、なんて言ってくれるかな・・・。
「地味だね」と、目もくれないかもしれませんが、
そのうち思い出してくれたら嬉しいし、
そんな思いで母も日々、煮物を作ってくれていたのかもしれないな、とも思うのです。