4年ほど前、わたしは卵巣癌になりました。
手術をして、抗がん剤の治療をしました。
いまでも、定期的に病院にいって検査をうけています。
先日の検査でちょっと骨密度が低くなっているのがわかりました。
「食事からカルシウムをとってくださいね。」と主治医から説明されました。
女性は閉経すると骨密度が低くなってしまうんです。
ちょうど1年くらいまえ、主治医から「閉経してますね」と告げられました。
治療のせい?と最初は思いました。
でも、主治医が、治療のせいで閉経したわけではないし、病的なものではないですよ。年齢的にも自然なことです。とやさしく説明してくれました。
なんだかとてもショックでした。
まだもうすこし先だと思っていた‥。
わたしは40代なのです。
病気をして、こどもをもつことは無理だということはうけいれることができました。
わたしは病気を治すことで精一杯でした。
治療後も体が元気になるのに時間がかかりました。
ああ、もうタイムリミットだな、としぜんに思えました。
もちろん、かなしみはありましたけれど。
でも、「閉経」してしまったこと、そのことはなかなかうけとめられないものがありました。
体力が回復してきたら、きっとまた生理がくるんだろう、って淡い期待をもっていました。
生理がきたら、もとの病気以前の自分にもどれるような気がしていたのです。
もう、若くないんだなぁって、思いました。
そして、とっても寂しい気持ちになってしまいました。
なんだかじぶんが「おとなのおんなのひと」ではなくなってしまったような気持ちになってしまいました。
男性にはわかりにくいかもしれませんんが、生理がくると女の子は「おとなのおんなのひと」になります。
生理は「おとなのおんなのひとのしるし」なのです。
そのしるしがなくなったのです。
「おとなのおんなのひと」を剥奪されたようなきもちになってしまったのです。
病気になって「こどもをもちたい」というねがいを手放した。
こんどは「おとなのおんなのひと」も手放さないといけない、と神様にいわれているようなきがしました。
なんで、わたしばっかりこんな目にあうのかな?がんばって治療したのに!
神様ってどうしてこんなひどいことするの?としょんぼりとしてしまいました。
このわたしの考えかた。それは「罪悪感」をもとにしている考え方だとしばらくして気がつきました。
罪悪感をもっていると、「こんな悪いわたしには罰がふさわしい」と思ってしまうのです。
そうすると、悪いわたしには、いいことがおこらないんだ、と自分をしあわせにしない考え方をしてしまいがちになるのです。
「わたしは悪いの?」と自分で自分に問いかけてみました。
ちがう、ちがう、わたしは「悪くない!」「病気になっただけじゃない!」と思えました。
手術も抗がん剤も大変だった。
痛いこともあった。
髪の毛も全部ぬけてしまって、みじめなきもちも味わった。
自分の体の中も外もかわっていくのが怖かった。
自分はどうなってしまうの?と毎日不安だった。
でも、それを乗り越えた。
泣きながら、頑張ったじゃないの。
そんなわたしが悪いわけないじゃない!神様っていうひとがいたら、「えらかったね」ってほめてくれるはず。
それくらい、頑張ったもの。
きっと、神様がくれるとしたら、罰なんかじゃなくて、ご褒美のはず。
心理学では「なにかを手放すことで、あたらしいなにかが入ってくる」と考るんです。
「宇宙は真空を嫌う」なんていいます。
あいているところになにかいれてくれるようなのです。
生理がなくなって「おとなのおんなのひとのしるし」を手放したことで、はいってくるものってなんだろう?と考えてみました。
そもそも、「おとなのおんなのひとのしるし」ってなんだろう?「しるし」がないとわたしは自分が「おとなのおんなのひと」だと思えなかったってことなのかな?と思いあたりました。
「しるし」なんかなくたってわたしは「おとなのおんなのひと」なのに。
それって、わたしは自分が「おとなのおんなのひと」という自信がなかったってことだったのかもしれないって思いました。
「おとなのおんなのひと」という自信がないから、男性から好かれそうな服装をしてみたり。
ばっちりお化粧をしたり。
パートナーをつくらなきゃとあせってへんなおとこのひとと付き合ってみたり。
強いふりをして、さみしさを我慢してみたり。
ひとりでなんでもやらなくちゃ、といきがってみたり。
大丈夫じゃないのに、平気なふりをして嘘笑いをしたり。
そんなことしていたのかもしれないなぁと思いました。
わたしはいつも緊張していたし、怒っていたし、疲れていたなぁと思いました。
たのしくもありませんでした。
だって、わたしは「おとなのおんなのひと」という自信がないから、じぶんが考えだした「おとなのおんなのひとはこうなんだろう」という「おとなのおんなのひと」にならないといけなかったからです。
それはけっきょくは「わたしというおとなのおんなのひと」を否定していることと一緒だったのです。
わたしは「わたしというおとなのおんなのひと」を嫌っていたんだってわかりました。
「わたしというおとなのおんなのひと」は存在を認められてもいなかったのです。
そんなかわいそうなことを、わたしは自分で自分にしていたのです。
そして、わたしはそのことにも気がついてもいませんでした。
なんてひどい!なんてかわいそう!なんて失礼なの!なんて残酷なの!
わたしは自分が自分にしてきた残虐な行為を恥ずかしく思いました。
そして、わたしは「わたしというおとなのおんなのひと」に心からあやまりました。
あなたにさみしい思いをさせて、ごめんなさい。
あなたにきゅうくつな思いをさせて、ごめんなさい。
あなたにかわいそうな思いをさせて、ごめんなさい。
あなたを嫌って、ごめんなさい。
あなたを無視してごめんなさい。
あなたをいじめてごめんなさい‥。
謝ってみると、わたしの心がかるくなったように感じました。
わたしと「わたしというおとなのおんなのひと」がひとつになれたような気がしました。
なんだか、しっくりくる感じ。
自由でかろやかな感じ。
しぜんに微笑んでしまう感じがしました。
もう、自分じゃない「おとなのおんなのひと」のふりなんてしなくてもいい、と思いました。
もう、「おとなのおんなのひとのしるし」なんていらないみたい、と思いました。
だってわたしはそのままで「おとなのおんなのひと」なのですから。
わたしが手放したもの。
それは生理という「おとなのおんなのひとのしるし」じゃなくて、それは「わたしというおとなのおんなのひと」を嫌っているわたし。
これから、わたしは「わたしというおとなのおんなのひと」となかよく、たのしくやっていこうと思うんです。
いままで、ひどい扱いをしていた「わたしというおとなのおんなのひと」を大切にしてあげよう。愛してあげよう。優しくしてあげよう。喜ばせてあげよう。
そんな気持ちでいっぱいなのです。
だから、てはじめに。今日から毎日、小魚をたべるんです。
毎日、ミルクものむんです。
だって「わたしというおとなのおんなのひと」には、いま、カルシウムがいちばん、必要なんですからね。