これは、僕が介護のお仕事を通して、出会ったおばあちゃんのお話です。
その方は、よく笑う方でした。
雨の日も、晴れの日も。
笑顔を絶やさず、冗談で人を上手に和ませるかたでもありました。
仕事に疲れ、時には抱え込み、いっぱいいっぱいになってしまう僕らスタッフに対しても、気遣いを差し出してくれて、スタッフにも、共に通われるご利用者さんにも、大変好かれているお方でもありました。
そのため、まだまだ働き始めで、ミスや失敗ばかりをしていた僕も、この方と関わると自然に笑顔になれて、すぐに好きになり、慕うようになりました。
未熟な僕にとっての、支えになってくれた方でもあり、この方と話すと楽しいし、笑えるしで、いつも僕はお話しできるのが、楽しみでもありました。
でも、ある日。
その方が苦痛に顔をゆがめながら、腰にしきりに手を当てていたのです。
どうしたんですか?そう聞くと、いつも通りの笑顔で、腰が痛くてね。そう口にされました。
伝わる笑顔はいつもと変わらぬものです。
でも。立つたびに何度も何度も腰に手を当てられている。
立つのもやっとの痛みを感じられていたことは、見ているだけの僕にも、簡単に想像出来ました。
でも、お話しするときは、やっぱり笑顔なんです。
時に痛さで顔がゆがみそうになっても、すぐにこらえて、笑いや冗談に変えて、僕だけでなく、色々な方とお話しすることをしていました。
誰にも心配をかけたくなかったのかもしれません。
弱音も、決して吐くことはありませんでした。
そんなお姿を見て、僕は心配だけども、何もできないと感じました。
当然ですが、痛みを取り除いてあげることはできない。
感じられている苦痛を、和らげてあげることもできない。
でも、僕は無力だけども、この方が、ご自身の痛みよりも、誰かを励まし、誰かの希望であろうとする強さがあることだけはわかる。
そう思いました。
笑顔にしても。明るさにしても。
もらった側は、その人が何の苦労もせずに、笑顔を分け与えられるようになったのかと、錯覚してしまうことがあるけど、笑顔や明るさの奥には、苦労や苦痛の日々の中でも、笑顔や明るく過ごすことを大切にした、日々の積み重ねがある。
このおばあちゃんの笑顔には、人生の中で苦労し、大変な目に合うたびに、笑顔であることで、その耐えがたいほどの苦しみを乗り切ろうとしてきた、笑顔の積み重ねと、努力の軌跡を感じました。
だから僕も、このおばあちゃんと関わるときは、少しでも笑顔で居る時間を増やして、真心で、この方に寄り添うことを大切にしようと思いました。
でもある時を境に、このおばあちゃんは、デイサービスの方に、来なくなりました。
何かあったのかな。大丈夫かな。そう心配はすれど、また元気な笑顔で、姿を見せてくれるだろうとも思っていました。
でも、ある日。そのおばあちゃんが亡くなったことを聞かされました。
原因は。死因は。いやそれよりも、何があったのか。
頭の中が、色々な思いが駆け巡り、胸は痛み、次第に頭の中が真っ白になっていきました。
まさか、こんなことになるのか。
あのとびっきりの素敵な笑顔を思い出すと、亡くなったことが、全く信じることができず、また笑顔で、話しかけてくれるような気がしました。
心の中が、軽く放心状態になりながら、お仕事をしましたが、全く、身が入っていなかったと思います。
心の中では、あのおばあちゃんが埋めてくれた心の隙間が、ぽっかりと空いたような、悲しみと空虚感を感じていました。
そして、その悲しみも空虚感も癒えることはなく、心の押し入れにしまい込んで、誤魔化しながら日々を生きていた、あるとき。
その時は、たまたま散歩をしていたのですが、しまい込んでいた悲しみを抑えることができず、歩きながら、涙が止まらなくなったのです。
涙を流しながら、無力な自分をたくさん、感じました。
一番つらかったのは、そのおばちゃんともう会えなくなるということよりも、あんなに沢山のものを、与えてもらったのに、あのおばあちゃんに対して、何もできなかったし、何も返すことができなかった。
辛そうで、苦しそうだった、あのおばあちゃんに何もできずに、会えなくなったことが、悲しくてたまらなかったのです。
だからもう、僕はあのおばあちゃんの笑顔に、例え、心の中だとしても、力をもらう資格はないと思いました。
何も返せなかった自分が、ほんとうに許せなくて、おばあちゃんの笑顔も、与えてくれたものも、忘れて頑張らねばいけない。そう思うことをしました。
でもそれから、一カ月ほど経った時、あるカウンセラーさんのグループカウンセリングを受けていた時です。
その時は、このことについて、全く話す気はありませんでした。
でもグループの雰囲気もあったかもしれません。
話の流れの中で、話すことになりました。
僕にとって、支えでにもなっていたおばあちゃんが亡くなったこと。
そして、その方に何もできなかった自分が許せないこと。
だから、おばあちゃんのことを忘れて頑張らねばならないと思っていること。
そのことについて、伝えました。
そして、そのカウンセリングの中で、おばあちゃんの愛を受け取るというセッションをやることになりました。
zoomの画面の中で、おばあちゃんを思い起こすような人を選び、その人の目を見つめていくことをしました。
でも見つめれば見つめるほど、悔しさを。無力さを。悲しみを感じるのです。
頭はおばあちゃんの愛を見ようと、必死になってるけど、心はそれを拒絶している。
でも、それを見かねて、カウンセラーさんが、愛を見てみて!
そう言ったのです。
心に響いてきた、その一言に後押しされて、おばあちゃんの愛を見ることを選んだら、段々と心が温かくなってくるのです。
それはあのおばあちゃんの笑顔を思い出し、おばあちゃんの笑顔の奥にある、思いに触れた瞬間でもありました。
君は、こんないいとこあるよねー-。
齋藤さんと話すと、やさしいから安心するよー。
何度もそう伝えてくれていたのです。
僕が僕を許せなかっただけでした。
おばあちゃんは、僕にずっと救われていてくれたのです。
自分の無力さも、悔しさも超えて、おばあちゃんの愛を見ることを選んだ時、おばあちゃんにとって、僕は価値ある存在であったことを受け取ることができました。
心理学には、こういう考え方があります。
物質的なものは、やがて消えゆくものかもしれないけど、心に関しては、消えることもなくなることもない。
心の分野に、物質的な距離は関係ない。
確かにもう、このおばちゃんとは会うことはできません。
でも、あのおばちゃんがとびっきりの笑顔で、僕を愛し、励ましてくれたように。
僕も誰かのことを、同じような笑顔で励ますことができる。
そしてそんな自分であろうとするとき、いつもあのおばあちゃんとの繋がりを感じ、あのおばあちゃんの笑顔を思い出します。
おばあちゃん。いつも、僕の力になってくれてありがとう。