すべてを受け止めて!大好きという裸の心

赤ちゃんの頃から1,2歳の記憶が残っている人はあまり多くないかもしれませんが、私たちは生まれてからしばらくの間、両親によって着替えからおしめ、ご飯を食べることのすべてを委ねて疑うこともなく、両親に絶対的な信頼を寄せていた時代があります。
成長とともに自分の意思がはっきりして両親からはなれる程この頃の記憶は失われたように感じますが、心の奥底の土台にはしっかりと記憶が残っているようです。

我が家には2人の子がいますが、私たちは愛されたように誰かを愛するし、また愛されるようです。
そのきもちは「愛おしい」という気持ちで現れるかもしれません。
今回は次男がパパである僕に見せてくれた絶対的な愛と信頼を記事にしました。
よろしければお付き合いくださいませ。

【いくよ!受け止めて!】

かれこれ10年以上前になりますが、1歳半を過ぎてよちよち歩き出した次男と、毎朝、毎夕、一日2回お散歩に出ていました。
テントウムシのバッジをつけた、お兄ちゃんのお下がりの赤い帽子をかぶって、アンパンマンカーを手押し車にして歩きます。
道の狭い住宅街なので歩道はなく、車道を歩くことになるのですが、僕が車きたよー、道の真ん中歩かないよ、といってもその言葉の意味もわかるはずもなく、常に目が離せないお散歩でした。

歩くのが日に日に歩くのが上手になってきたある日、公園で歩いている時でした。
次男は公園の縁石から生け垣をかき分けて階段状になっている塀の上へ登っていったんですよね。
もちろん、僕も目は離さず、手を引いています。
塀の高さは僕の胸を越え、そろそろ手も繋ぎづらくなりました。
次男の目線も僕を越えるほどになったので、そろそろ危ないな、と思って「降りておいで」といって、次男をその場で抱っこして降ろそうと手を差し出したとき、彼はまだ口で言えないかわりに目をキラキラさせて、小さな身体をバッと大きく開いて大の字にして、「飛ぶよ!」と全身で語っていました。
そして、そのまま倒れ込むようにダイブ!してきたんです。
それも、めちゃくちゃうれしそうに。

僕は驚いて「おっと!」と受け止めました。
高さは、当時の次男の2倍以上はあったかな(まだ机の上に頭が出ない頃でした)
下はコンクリートです、落とすわけにはいきません。

まだ小さいとはいえ、高い所には怖さを持ってます。
それでも「もしかしたらパパは受け止めてくれないかもしれない」「失敗して落とされるかもしれない」などの疑いもなく、キラキラした目で自分の全てを任せられる絶対的な信頼と自信。
すごいと思ったのです。
そして、その信頼に愛おしさを感じました。

【父から子へ繋がっていく愛】

誰かに向かって目をキラキラ輝かせて身体を大の字にして胸を大きく開いて見せられるのは、「私はあなたに包み隠さずすべてを見せられます」というボディランゲージ(行動に表れる心理)でもあります。
子供というのは素直なもので、自分のことを愛してくれていない人には心を開きません。
我が家の子供達を見ていると、誰でも信頼して大きく手を広げられるわけではなく、いつも自分を見てくれている人や関心を向けてくれている人、愛されてる!と思える人に素直に心を開いているようです。
ちょっと意地の悪い人(そういう親戚いますよね^^;)には心を開きません。

人は、愛されたように誰かを愛することができると言われています。
冒頭の僕と次男のやりとりは、僕がそれだけ普段から次男に心を開いて接していたということもできるのですが、それは決して僕が特別に愛が深いとかではなく、次男と同じ年齢の頃、僕にしっかり向き合って愛してくれた両親がいたということでしょう。
僕自身は、そのように両親に愛されたという記憶はありません。
特に父は理不尽な叱り方はするし、うまくコミニュケーションもとれないし、父からは愛されないと感じて憎んでいるほどでした。

だからこそ子供達には理不尽な叱り方はしないぞ!しっかり向き合おう、と思って子育てをしてきました。

でも、今は思うのです。
父も、同じ気持ちだったのだろうな。うまく息子を愛せないときはあったけれど、父なりに一生懸命、愛そうとしていた。
そして、その愛されたように僕は僕の息子達を愛している。
どうしてって、僕もまた、うまく子供達を愛せないときがあるから。
理不尽に叱ってしまうことがあるから。

次男が見せてくれた全身で表現してくれた無邪気さや信頼は、かつての僕自身。
僕が父に愛された度合いだけ今も心の中で持っているものなのですよね。
(ということは、その愛を伝えることができた父も同じものを本当は持ってる。とてもそうは見えないけれど)

大人になった今、私たちは本当に信頼していると思っている人にさえ、目を輝かせて大きく胸を開いて受け入れてもらうことは、裸になるよりも恥ずかしかったり怖かったりするかもしれません。
なぜなら、私たちは大人になるにつれてすでに、心の洋服を着ているからです。
いろいろな社会的モラル、人との関わり合いの中で身についた社会性、そして、あるときは傷つき、あるときは傷つけてしまったこともあるでしょう。
そのときに裸の心の自分ではうまくいかないことを学び、自分を、他人を守るために服を着るようです。
でも洋服の下には決して人には見せられない自分がいて、こんな私や、あんな私、こんな自分は絶対に見せられない、と自分を隠しているので、自分のすべてを受け止めてもらえる状況になっても、その服を脱ぐのは怖いもの。
「本当に?」
「こんな自分見せられないよ」
「そういって裏切るんじゃない?」
というきもちが出てしまいます。

でもそのような気持ちは大人になった今は誰でも持っていることですよね。
それでいいと思うのです。

ただ、大人になった今でも私たちは赤ちゃんの頃に愛されたときのような絶対的に愛され絶対的に愛しているという信頼の心を持っているからこそ、いまでも誰かを愛することができて、誰かから愛されていることに気づけるのでしょうね。

僕は、父親としてちゃんとした親であろう、理不尽なことはしないでおこう、という服を着ていたのかもしれません。
そうした親としての責任は時にうまく子供を愛せないときもありましたが、次男の無邪気で無条件に示してくれる「パパ大好き!」という裸の心に、「愛おしいな」「誰よりもかわいいな」と思うほど僕の心は素っ裸にされていたのです。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

自身の生きることの辛さ、日常の悩みを乗り越えてきた経験から、心の束縛感や生き苦しさ、恋愛、夫婦関係の問題解決を得意とする。 ご相談内容を心理分析しながらお客様と共に考えていくことで、気付けなかった本当の気持ちを洗い出し、アンバランスになった心の整理整頓を行う。