ちょっと、そこのお姉さん。
ある日、スーパーマーケット買い物中でのこと。冷凍食品の棚の近くにいた私は、隣にいたお客さんから声をかけられました。
そっちの棚の上の方に、ご飯があるでしょう?
それを取ってもらえないかしら。
私の隣に立っていたのは、小柄で腰も曲がった白髪の女性でした。
女性が指し示したご飯は、棚の上段に陳列されていました。
声をかけてきた女性のような小柄な人なら、上の段にあるものを取るのは一苦労だろうなと思いました。
ご飯ですね。これで合ってますか?
私は言われた商品を取って女性に渡しました。
商品を受け取った女性は言いました。
そう、これ。どうもありがとう。
親切にどうもありがとう。
女性は、柔らかな笑顔を私に向けてから商品をカゴに入れて、カートを押してレジに向かって行きました。
私はその笑顔を見て、とても温かい気持ちになりました・・・となれば、ちょっといい話で終わりなのですが。
そうは行きませんでした。
私、温かい気持ちにならなかったんです。
むしろ逆で、どちらかというと嫌な気分になりました。
私の心の声を実況中継するならばこんな感じ。
もー、おばあちゃん、そんなにお礼なんて言わなくていいよ。
頼まれて取っただけだし。
私には上の方にあるものを取るなんて簡単だし。
なんだか、私がすごいことをしたみたいじゃないの。
そう、お礼を言われたことに対してものすごく否定したい気分でした。
何だか居心地が悪い、むずがゆい。
*
さて、私はなぜそんなに居心地の悪さを感じていたのでしょうか。
どうも、普段から自分で自分をどう思っているかが関係していそうです。
自分で自分を「そんなに良くないもの」と思っていたとすると、良くないものが他人から感謝されるなんて、自分の認識に合いません。
だから、誰かから感謝されても、その言葉にピンとこないどころか、違和感を抱いて嫌な気分になったりするものです。
スーパーをうろうろしながら、何を買おうかとぼんやり考えているときの私は、自分のことを「どうせ私なんて」「私なんてたいしたことない」「私はいい奴じゃない」というようにネガティブに思っていたようです。
不意に声をかけられて、まっすぐに感謝されて。
あなたは私の頼みを聞いてくれる優しい人でしょう?親切な人でしょう?とばかりに、私自身が「いい人」扱いされていることに、うっかり動揺してしまいました。
遠ざかっていくおばあちゃんの背中を見送りながら、居心地の悪さが少しずつ落ち着いてきたところで、じわじわと「ありがとう」という言葉が心に沁みてきました。
そうか。自分が自分をどう思っているかはさておき、私がしたことはいいことなんだ。おばあちゃんの言葉は素直に受け取っていいんだ。
くすぐったさはまだ残るものの、私も自分をいいものだと思ってよかったんだなと思えました。
おばあちゃんが私の反応を気にすることなく、“言いっぱなし”だったのも、また良かったのだと思います。
「私って素敵な人でしょう?」というアピールでもなく、「感謝したから次も手を貸してよね」なんて見返りを求めるでもなく、心の中にある素直な想いをただ口にして相手に伝えただけ。
素直な気持ちをただ言葉にしただけだからこそ、その気持ちはとても軽やかで、私の心にまっすぐ届いたのでしょう。
おばあちゃんの笑顔と言葉が、私の「自分はそんなに良くないものだ」という自己認識と、「私は悪い奴だから近づいてくるなよ!」という心の壁を優しく溶かしてくれるようです。
*
誰かに感謝の言葉を伝えた時、相手の反応がイマイチだったことはありませんか。
もしかしたら、それは今回の私のように、自分が感謝されるに相応しいと思えていなくて、自分自身の認識と、言われた言葉の不一致に戸惑っているだけかもしれません。
だからきっと、相手の反応がどうであれ、誰かに心からの「ありがとう」を伝えることには大きな意味があるのです。
「ありがとう」の言葉をどう受け止めるかは相手が決めることですから、相手はあなたの「ありがとう」の言葉を受け取らないかもしれません。
でも、それはあなたの言葉に価値がないのでもなく、間違っているのでもありません。
たとえ相手がそっけない態度をとったとしても、あなたに感謝されるにふさわしい存在として扱われた経験は、相手の心に残りますから。
*
あのおばあちゃん、きっと周りにたくさん「ありがとう」を言っているんだろうな、と思いました。
いろんな人に「ありがとう」を言っている人がひとりぼっちであるとは想像できなくて、買ったご飯はご家族と一緒に食べるのかな、なんて想像しました。
なんでもひとりでできるのもかっこいいけれど、誰かの力を借りて、心からの「ありがとう」をたくさん言えるのも幸せなことです。
「ありがとう」の言葉ってすごいな、と実感した一日でした。
素敵な見本を見せていただいたなと思っています。